2014年3月10日月曜日

俺の妹がこんなに可愛いわけがない 桐乃はなぜ妹が好きなのか

今回は桐乃が妹を愛する理由ついての考察です。

前提として明確な表現

第一巻で
「わ、分かんない!」(中略)「……あのね……あのね……じ、自分でも……分かんないの」
と語るように、桐乃が妹作品を好きになった理由について当初は明言されません。
この理由というのが、推理小説のハウダニットのように物語の原因を巡る謎となっており、桐乃がその「動機」を自覚することが一つの結末への鍵となっています。

原作でも物語を読み進めれば分かる構成になっていますが、
伏見つかさ先生が脚本を担当したアニメ第二期の13話が非常に分かりやすいですね。
この回は、原作11巻を大幅にカットしつつ、なるべくニュアンスを削らないように構成されています。
11巻は推理小説に例えるなら、探偵が事件の概要を語るシーンに相当する非常に重要な巻ですので、やはりオリジナルに比べると勿体無いぐらいに情報が落とされている訳ですが、結末へ至る為の最低限必要な項目だけは明記してあるという点で構造は理解しやすいでしょう。

13話の中で、麻奈実が兄妹恋愛を否定する言葉のカットから、彼女がエロゲーを発見してそれにハマる過程が描かれています。
つまり、妹ゲームにハマった原因は、京介への報われない思慕の代償行為であると表現されている訳です。
兄と妹が恋愛することが肯定される物語を通じて、否定された自己を再度肯定しようとしているという解釈です。
(アニメと原作を混ぜて解釈するのは、あまり好ましい行為ではないのですが、私がアニメから入ったせいで内容自体が混合されているのでご容赦下さい)


深層意識下の代償行為

ここまでは、作中で明確に描かれた要素ですが、それ以外にもう一つの要素が考えられる、というのが今回の趣旨です。

それは11巻で
「(前略)『背伸びしていた兄貴』のことを、カッコいいって思ってた。頭がよくて、足が速くて、誰よりもがんばってて、自分のことを特別な人間だと思っている――そんな人にあたしもなるんだって、憧れててた」
(中略)
「ーーでも、そんな人はいなかったんだよね」
このそんな人はいなかったと語られる「過去のお兄ちゃん」への憧れです。
そして、この理想化された存在しない「お兄ちゃん」には、上の言葉には語られないもう一つのが付加されているます。
それは「妹である自分を異性としても愛してくれる」というものです。
桐乃からの一方的な思慕を、理想の兄は受け入れてくれる、積極的肯定してくれると思うようになっていくわけです。
これは「自分がそうであるならば、彼もまたそうであって欲しい」という欲求が「そうであるはずだ」と変形した都合の良い理想です。
しかし普通ならば現実と衝突し、挫折を経験するであろうその理論を、現実の京介が無気力化して舞台から降りたことで、理想の「お兄ちゃん」を追い求めた彼女は一人で再現することになります。

桐乃は、小学校の頃に一番番足が速かったことを目標に、陸上で海外遠征までしてしまう。
学校のしおりの表紙に写真を載せたことを目標に、プロのモデルになってしまう。
彼女の理想の「お兄ちゃん」は当時の京介を超えて成長していきます。
そして「お兄ちゃん」が成長したならば出したであろう結果を、己をもって再現するのです。

彼女の中だけの理想であり、現実の京介が持ち得なかったどのような要素も獲得できる存在。
それは多くの少女が幼少期に抱く、究極の理想化された異性、白馬の王子様願望に近いものですね。
そして「そんな人にあたしもなるんだ」という理想へ同一化しようとする桐乃には「お兄ちゃん」と同じように妹への愛情が生まれた訳です。
(完全な余談ですが、この思考ロジックは少女革命ウテナの天上ウテナを彷彿とさせます)

現在の京介が3年前以降麻奈実の影響下にあるように、現在の桐乃は過去から抱き続けた理想の「お兄ちゃん」の影響下にある訳です。

作中の人生相談を通して、桐乃は徐々に現在の京介を肯定できるようになっていきます。
その中でも、理想の「お兄ちゃん」を再現する自分の行為と、現在の兄貴である京介の存在が初めて本格的に衝突するのは、海外で挫折を経験し、彼女を止めるために海外まで追いかける場面だと思います。
同一人物でありながら、違う2人の兄を見ていた桐乃にとって、「頑張らなくていい」と過去の「お兄ちゃん」を否定する言葉で自分を連れ帰ろうとする京介を見ることで、ようやくその分割された2つの兄像が同一人物であると認識せざるを得なくなる。
そして、完全に合一するのは11巻の三人の会話のシーンで過去の事情を知り「そんな人はいなかった」と自身の言葉にして認めるまでかかるわけです。

そうした彼女の理想とは違い、京介が秋美に対して
「(前略)三年前から妹のことが好きだったの?」
「いや、三年前に好きだったやつといま好きなやつは違うよ?」
と語ったように、桐乃の理想であった当時は妹への愛はあくまで家族愛でしかなった。
しかし、京介は段階的な変化ではなく、秋美の事故をきっかけに別人のようになることで、幼かった桐乃の中では「お兄ちゃん」とは別の人間として分割されてしまった。
だから、ひとり歩きした理想を追いかける彼女には、その齟齬を埋める機会がなかったのです。

現実に「お兄ちゃん」が存在しなくなった桐乃は、理想の中の「お兄ちゃん」が自分にそうしてくれるはずだったように、彼の代わりに妹を愛する。
彼女の意識はエロゲーの中の妹と自分を重ねあわせながら、同時に兄にもまた感情移入しており、その双方が同時に桐乃自身なのです。

理想の兄となってゲームをプレイして、理想の妹である自分を愛する。
ゲームのヒロインに「お兄ちゃん大好き」と言われて悶絶する。
それはipodに吹き込まれた未来の自分へ向けたメッセージと本質的には同じものです。
才能ではなく努力によって「お兄ちゃん」としての自分を作り上げた彼女にとって、それを褒めて肯定してくれる存在はエロゲーの中の「妹」としての自分だけなのです。


総論

彼女にとってエロゲーをプレイするということは、自身で自身の尾を飲み込むウロボロスの蛇のように、架空の「お兄ちゃん」になって自分を愛する自己愛の円環構造となっている。

そんな幼少期から報われぬと分かってしまった自分の願望を、複雑な代償行為に仮託せざるを得なくなってしまったのが桐乃という人物なのです。



つまり桐乃って超かわいいですね。

2014年3月9日日曜日

俺の妹がこんなに可愛いわけがない この作品を一番楽しめる人とは誰か

この作品を読んで、一番楽しめる人物像を想像してみました。
そして、残念なことに、その定義には私は当て嵌まりません。
では、どんな人間が最もこの作品を楽しむのに適しているのでしょうか?


楽しめる人の物像

まず作品を楽しめるというものの定義なのですが、
私見としての楽しむとは感動することです。
それはつまり
「作品を読んだことで自分の価値観を問いなおすような衝撃があること」
ということになります。
名作というものは、得てして人間の生き方そのものにすら影響を与えるものですから。


そして、その定義で考えると、この作品が最も向いている人物像とは
「オタクであり、そのことに負い目を感じつつも、倫理観は非常にまっとうな人物」
となります。

この人物像で誰かを思い出しませんでしょうか?
そう、この作品のヒロインである高坂桐乃です。
桐乃こそが作品とは関係ない読者としてこの作品を読んだ時に最も楽しめる人物なのです。


楽しむための方法論

では、その理由は何故か?
答えは一巻と十二巻の結論の相似形にあります。

一巻では
「本当に好きなら他人なんか気にせずにオタクであることを認めよう」
という京介からのメッセージが語られます。
オタクであり、そこに負い目を持つ人間は、この強烈な自己肯定により非常に大きな感銘を受けることができる筈です。

では、十二巻はどうでしょう?
ここで語られるメッセージとは
「本当に好きなら他人なんか気にせずに妹を愛しちゃったことを認めよう」
という京介の決断が語られます。

これは近親相姦であり、まっとうな倫理観を持つ人間は拒否反応を抱くことになります。
ところが、この否定するべき論法は一巻のオタク肯定と同じ構造になっているわけですね。


つまり、自分を肯定してくれた論法により自分の倫理を否定されるという自己矛盾を突きつけられることになるのです。
好きならいいじゃない!として肯定された方法で、なら好きならコレも良いでしょ?という価値観を同時に突きつけられる。
後者を否定することは、自身を認めた前者の論法への否定にも繋がります。
どんなに好きでも社会が認めない近親相姦、と否定することは、
同時に、どんなに好きでも社会が認めないオタク趣味を否定することにもなるのです。
これを肯定したのはどちらも「他人に迷惑をかけない好きという気持ちは認めよう」という方法論だからです。


作中の京介と桐乃の関係も、他人に秘密にするのならば誰にも迷惑かけていませんよね?
親にバレたら不味い?それはオタク趣味でも同じことだと一巻で明らかになりました。だから最後まで二人の秘密として背負うという結論を出したのです。
生涯結婚できない?別に今どき生涯独身の男女なんて腐るほどいます。子供を作らない、作れない夫婦というものも認められています。
つまり、二人がその関係性を公にしないで付き合っていく場合、
そしてオタクを肯定するように「好きなら他人がどう思っても良い」と認める場合、
それを否定する論拠は何もないわけです。

この価値観への揺さぶりこそが、この物語全体の真骨頂だと思います。


高坂桐乃の場合

高坂桐乃は作中で京介によって何度も語られるように、そしてその行動が示す通りに、決して近親相姦が他人に認められる行為であるとは認識していません。

それは京介が桐乃へ告白する時に
「(前略)兄妹で恋愛なんてエロゲの話でしょ……現実でやったら、そんなの気持ち悪いだけじゃん……!」
という言葉でも語られています。

仮に京介に対して恋愛感情を持たなかった桐乃であるならば、そして近親相姦が自身に関係のない問題であるならば拒否感を感じたはずです。

しかし、自身のコンプレックスとなっているオタク趣味を許容してくれた作品に同じ方法によって肯定された場合はどうでしょう?
自身の価値観が揺らぐのではないでしょうか。
そして双方を矛盾なく納得する為にも、自明のものとして考えなかった、倫理の正しさとは何かについて思考せざるを得なくなる。
こうして、思考し、考えるという行為の必要性を生むことになります。

総論

私のように「近親相姦でも双方合意ならば別に良いじゃん」という結論を、作品を読む前から先に持っている人間には持つことのできない思考の機会。
それを倫理について疑問を持たなかった人間は作品から得ることができる。

そして問いから逃げずに、自分でしっかりと考えた上で自分の為の回答を導き出せる人間こそ、本当は一番「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」を楽しめる人間なのではないでしょうか?

その結果が近親相姦への肯定と否定どちらであっても、その結論を自身の中で昇華し自覚的な倫理観が形成されるのであれば、やはりこの作品がその人にとっての人生の一部となっている筈です。

2014年3月8日土曜日

俺の妹がこんなに可愛いわけがない 賛否両論の理由 -補足- 近親相姦の内包する問題

俺の妹がこんなに可愛いわけがない、最終巻における結末が賛否両論ある理由は、個人的感情による根拠なき作品へのバッシングを除外すると、やはり兄妹での恋愛、つまり近親相姦の是非にかなりの部分が集約されるのではないでしょうか。


何故、近親相姦が倫理という言葉によって否定されるのか。
この点について友人と話していて気がついた、完全に見落としていた問題点がありました。

前回の記事において、出産を前提としない夫婦を許容する社会において、近親相姦を否定できる根拠が無いと書きましたが、「近親者による性的虐待との線引の難しさ」を失念していました。


近親相姦を否定する論拠

欧米ではかなり根深い問題として、父親から娘への性的虐待、もしくはもちろん母親から息子への性的虐待が存在します。

近親相姦の肯定が、ここに「恋愛関係としての性交渉であった」という逃げ道を与える恐れがあるという可能性です。
しかし、この場合はそもそもが未成年者に対する強制的な性交渉の方を問題にするべきでしょう。

では、マインドコントロールのように、性的虐待を当然のものと肯定するような人格を形成するように育てられたらどうでしょう?
子供にとって世界を形造るのは両親と家族であり、そこから歪んだ認識を与えられた場合、それは成人したとしても正しい判断ができているとは言えないでしょう。

彼、もしくは彼女が、一般的な成人としての判断を備えた上で、近親者を恋愛対象と選んだという根拠が、外部の人間に対して明確に証明できないのです。



これに対する回答として「人間の人格形成に密接に関わる異性は、恋愛対象として除外することで安全性を保つ」という考え方ができます。
この理論では、確かに現代においても近親相姦否定の論拠は成り立つと思いました。

自由と安全の天秤において、子供への虐待を見過ごしてしまう可能性よりは、その自由は制限されるべきであると私も考えます。


高坂兄妹の場合について

高坂兄妹においては完全に自我が形成されて後に生まれた関係性ですので、上記の問題には当てはまりません。
ただし危険なものは一括りにして排除するという方法論を用いるならば、彼らの関係性も否定されてしまうでしょう。

なぜなら、彼らの関係性を一切知らない外部に対して「幼少期から兄が妹を、もしくは妹が兄をそう思うように教育・洗脳したのではないか」という可能性を否定する根拠を提示できないからです。

一見すると自由意志否定のようですが、かって巨大宗教団体がマインドコントロールによって、外部から人格を歪めることに成功していた例を出すまでもなく、人間の精神は相応の手間をかければ操作可能であるということは証明されています。
まして、幼少期であるならば、それは素人でも実行可能な程に容易でしょう。

それが本人単独の意志であるか否かが判別できないという状況は、物理的な証明の難しい心の問題だけに明確な答えのないものとなります。

つまり京介と桐乃においても、自分たちが正確な判断を下せる人間として相手を選んでいると、全く見ず知らずの他人に証明することが難しいということは変わりません。


総論

私としては、裁判のように、個別の案件に関してそれぞれの状況を鑑みて取り扱う必要性があると思っています。

そして「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」という物語を全て読むことで、京介と桐乃の関係性を知っている人間は、黒猫や沙織たちが彼らを受け入れたように、そういった社会的な安全弁の存在を認識した上でも、兄妹であるという理由を用いて彼らを拒否することはないと信じたいと思います。

確かに、全く予備知識のない他人の関係としての近親相姦であるならば、上記した理由により警戒することは正しい反応です。

しかし、物語という形をとり、二人の関係性を正確に認識できる特権的立場にある「読者」において、それは適応されません。

そうであるならば、読者というものは近親相姦という表層的な事象だけに囚われずに、二人の自立した人間の判断の結果として、その関係性を認識するべきだと考えます。

2014年3月6日木曜日

俺の妹がこんなに可愛いわけがない 最終12巻の賛否両論の理由

個人的には最高の結末だった最終巻ですが、色々なレビューを読むと否定的な感想を持つ方もいるようで、その理由について考えてみました。

読者の認識の違い

意見の断絶が起こる大きな理由は、1巻を読んだ時点でこの作品に求めたものの違いでしょう。
本編を読めば分かりますが伏見つかさ先生はエロゲーに造詣がある方なので、実妹モノという「近親相姦、インセスト・タブーをテーマにしたラブコメ」というジャンルを踏まえた上で創作された作品だと思います。
ツンデレの妹とのラブコメと定義しても先達と言える作品は多くあるでしょう。

だからそれを踏まえた読者からすれば、メインヒロインという主人公の相手役は、タイトルを見るだけで妹である桐乃しかありえない。
兄妹という家族に対して抱いた、禁断の恋愛劇の行方というものが、物語を読み進める原動力の基板として存在します。


ところがそういった素養のない方からすれば、1巻の段階では「兄貴が妹の為に頑張るファミリードラマ」という受け取り方をすることもできるのです。

表層的に起こる事象は妹の悩みを聞いてそれを解決するために奔走する物語であり、後半を読めば理解できる物語開始以前から抱えていた桐乃の恋心について明確は描写はないからです。
あくまでも家族愛の物語として読むことも可能となっている。

最終巻から振り返れば、この物語とは1巻の段階から「他人から否定されるものとしても、自身の好きという感情を肯定する」という主題の物語ですので、当初から近親相姦に踏み込むことは既定されていたと分かるわけですが、そこまで読み取れというのは酷でしょう。

だから、自身の倫理感とは違う結末に、生理的な忌避感を覚えてしまう。
それまで共感してきた主人公の選択を自身の中で昇華できずに、澱として残る。
つまり己の持っている今まで信じてきた倫理観について問いかけられることになります。

第一巻で「社会から白眼視されるオタクであることを肯定する」ことに癒やしを感じ、京介や桐乃に共感し続けた人間が、「社会から白眼視される近親相姦を肯定する」ことは否定したいと感じる。
この対比構造が自己矛盾を生むわけです。


倫理の持つ矛盾

創作物は読者に対して疑問符を残すことで思考させることは、本来的には評価される点なのですが、エンターテイメントとして広く流通することで、それに比例して考えることを面倒な行為として嫌う人間も増えてきます。
だからこそ、その矛盾を思考放棄し、作品全体を否定することで問題に蓋をしようとする。

何故ならば、近親相姦自体が、何故悪いのかを明確に定義できない問題だからです。
他人を物理的に害する行為ではなく、ただ生理的な嫌悪感から発生する拒否、それは人種差別と何が違うのか?
あくまでも周囲の社会や人間が拒絶するから問題が発生する行動であり、ただひたすらに不条理この上ない断定として「悪い」と社会から規定されているもの。

近親婚否定への例として挙げられる「子供を持った場合の遺伝子的な欠損の可能性」ということは、逆に言えば現代社会のように子供を持つことが夫婦の絶対的義務とされない社会においては適応されません。
過去の日本のように不妊症の女性が石女(うまずめ)などと迫害されることの方が問題でしょう。
経済的な問題、肉体的な問題により、子供を持たない夫婦というものは許容されるだけの豊かさがあります。
子供への遺伝的な問題というものは、現代ではそれだけで拒否されるものではなくなっている。
京介と桐乃が、子供を作らない夫婦になることに、これは否定する要素になりえない。

それでも、なぜ近親相姦は「悪い」のか?

この倫理が内包する致命的な矛盾への問いかけこそが、この作品を特異な立ち位置に置かせ、同時に賛否両論をもたらす根幹になっていると思います。


創作者の決意

こういった乖離は読者からのファンレター等で、作者と編集共に理解していた筈です。
メディアミックスも多くされた作品だけに、批判を恐れて途中で方向転換し近親相姦には触れずに、適当なヒロインとの恋愛劇として終幕を迎えるという、逃げの選択肢も常に存在したわけです。

私もこれだけ流行ってしまったが故に、逃げの選択をするのではないかと思い、完結するまで読むことができませんでした。
だってその方が楽でしょう?
賛否両論よりも、適当なヒロインとのラブコメに方向修正するチャンスはいくらでもありました。

だからこそ、賛否両論を覚悟して最後まで描き切ったという姿勢に感動を覚えます。

12巻での麻奈実との決戦において、
そもそも、最終決戦だなんてご大層な前フリをしたが、麻奈実はラスボスなんかじゃない。この物語のラスボス、おれが立ち向かうべき敵は、一番最初から変わっちゃいないんだから。俺はそいつ、あるいはそいつらに行ってやった。「知るか!」ってな。
この中の京介が立ち向かう「そいつ」、「この物語のラスボス」とは、作中の社会や倫理と同時に、最終巻を読んで二人の恋を否定する読者のことも表しています。

この台詞の時点で、基本的に読者が感情移入するべき主人公である京介が、自身と相容れない意見を切り捨てているんです。

こうして批判も否定も納得した上で、それでも物語の主題を描ききるという決意は
「俺はそれを破る!もっと大切なものがあるからなあ!」
 という言葉に仮託されて、語られていると思います。

「読者の共感よりも桐乃がもっと大切なものだ」と読み方は多分にメタフィクション的な視点でありますが、間違っていない解き方だと思います。
というのは、これまでの一人称における京介の主観というものは、外部に呼びかけるように読者の視線を意識したものとして描かれていますから。
この決断によって、物語の中の読者の主観という役割を放棄して、自身の思いの為に行動しているんですね。
だからこそ彼の決断に同意できず、拒否されることとなった読者が反発を覚えるのも、予定された当然の反応なのです。


総論

12冊という分量を持って、作中で2年、桐乃にとっては自分の半生をかけて育まれた思いは、それでも理由なき倫理によって否定できるものなのか?

私は、二人を心から祝福したいと感じましたが、そうではない人もいる。
でも、それは絶対に起こりうる必然なのでしょう。
理屈では分かり合えない根源を抱えるのが人間だからです。

その相容れない二極化する感想と、そこに生まれる各々の思考こそが、この作品を萌え属性を組み合わせた、甘いだけの恋愛劇に収めないものとさせているのです。


俺の妹がこんなに可愛いわけがない、という作品の持つ「否定する人間がいると分かっていても好きを否定しない」というメッセージは、京介たち物語の内側の問題であると同時に、物語の創作論という外側にも共通するテーマだったのではないでしょうか。

俺の妹がこんなに可愛いわけがない 京介の三年前に好きだった人

今回は、京介の過去の恋愛について考えてみようと思います。

問題になるのは幼馴染として、桐乃と対立構造にあった存在の麻奈実。
この物語においては、妹である桐乃とそれ以外の異性との対立構造という意味で、黒猫やあやせの存在を含めて麻奈実が代表しているんですね。
第一巻以前から存在していた三角関係が広がっていき、多くのヒロインが登場しつつも、最終的にはまたこの三人の対立構造として締めるという構造です。

重要なのは11巻での秋美の告白に対する答え
「三年前でも、いまでも、答えは同じだ」
泣きながら伝えた。
「ごめん、俺、好きな奴がいるんだ」
俺は今度こそ、自分から告白すると決めたんだ。
その後の12巻でのネタばらしとして
「あたしてっきり『あの人』のことだと思ってたよ!『三年前もいまも答えは同じ』なんてゆーからよぉ~~!三年前から妹のことが好きだったの?」「いや、三年前に好きだったやつといま好きなやつは違うよ?」
「あの人」は秋美との人間関係から言って麻奈実を指しているのですが「三年前に好きだったやつ」は麻奈実なのかどうか?

まず、こういう演出になった一つの要因は、12巻へ向けて読者の興味を煽る為に京介が麻奈実の事が好きなのかとミスリードさせる為ですね。
桐乃への告白シーンでも「俺、好きな人がいるんだ」の後に、あえて言う必要のない「……ごめんな」を付けることで彼女以外の誰かを選ぶのかとミスリードさせるなど、後半はとにかく読者の予想を混乱させるための演出を多様してきます。
この「ごめんな」はアニメ版14話でカットされていますが、さすがに時系列で考えると、兄妹へ告白しようとしていることへの謝罪と考えても、この流れで言うのは京介の意図が不明瞭ですね。

本編での京介は赤城との会話で「麻奈実に言い寄る男は許さない」という発言や、3巻での
すっと身を乗り出して、顔を寄せてくる麻奈実。悪戯っぽい笑顔で、そっと耳打ちしてくる。
「……やっぱり一緒に入る?」
「……!?」
恥ずかしがらせるための策略――冗談だと分かっちゃいる!
だが俺は、不覚にもかなり同様してしまった。
というように、全く異性と思っていない訳ではない。

しかし、3年前に麻奈実が好きだったと仮定した場合、二人の中が一切進展しなかったのは何故なのでしょう?
作中でも頻繁に麻奈実からのアタックはあり、京介が少しでも乗り気になれば一気に進展した可能性が高かったにも関わらず。

この回答を導くために必要となるのは、麻奈実との対決の後の一文
きっとこれが俺たちの、始まりすらしなかった、初恋の終わりだった。
の解釈ですね。
ここで主語が「俺たち」である点が重要です。
この一文の直前に麻奈実から告白されているので、当然麻奈実から京介に恋しているのは確定している。
しかし彼の行動から、京介が麻奈実に恋をしているというには不自然な状況なので、彼には恋人を選ぶという状況を意識しなければならなくなるまで自覚がなかったとするしかないでしょう。
「三年前でも、いまでも、答えは同じだ」 
という当初の一文から、3年前に秋美から告白された場合に、麻奈実との関係を天秤にかけて、好きな女性を選ぶとしたら麻奈実を選んでいた。
ということなのではないでしょうか。

つまり、過去において秋美が事故に合わずに告白を成功させていた場合、それにより京介は誰かを選ぶ決断をせざるを得なくなる。
彼を「死んだ魚の眼」とまで表現される程に無気力化させ、結果として麻奈実が望むような京介にさることになる一件がなければ、実は「まなみん大勝利」だった可能性が高かったのではないでしょうか。

あの事件自体は誰が望んで行ったものではない悲劇なのですが、京介を自身が望む状態に変化させ、結果として最初の桐乃の京介への恋心を破綻さることになった事件によって、彼女もまた同時に失敗していたというのも皮肉な話です。



追記

もう一つの理由として、京介は麻奈実をよく「おばあちゃん」に例えます。
彼にとって異性の肉親という表現方法です。
そして8巻では彼女のことを
あるときは母親のようで、またあるときは祖母のようで。妹のようで姉のようで、本当の家族のような――幼馴染。
と表現しています。
京介が麻奈実を好意的に見ていても、最後まで異性として選べなかった最大の理由は、物語の開始時に妹よりも肉親としての親愛を感じる存在だったからではないでしょうか。

高坂家の中で、京介達の父親は人物像を掘り下げて描かれるのに対して、母親の影は薄く描かれています。
決して京介の母親が彼を愛していない訳ではないのですが、京介の視点においては桐乃に比較して両親の愛情が不足していると感じている。
実際に10巻にて受験の為の一人暮らしを言い渡された京介自身が
考えてみりゃさ、俺、親からこんなに干渉を受けたのって、生まれて初めてじゃね?親父もお袋も、昔からずーっと桐乃桐乃桐乃桐乃で、優秀でも華やかでもない息子の受験なんざどうでもいいもんだとばかり思っていたんだけど。
というように語っています。
両親の愛情という点では、桐乃に対して軽い嫉妬を覚えている節がある。

その愛情の欠落を埋めるための、京介にとっての精神的な母親の位置を麻奈実は占めていたのではないでしょうか。
母親よりも母親のように感じていた存在だからこそ、彼女を異性としてみることが最後までできなかった。
「たとえば……他の男が田村さんに言い寄っても、おまえは構わないっての?」「は? そりゃ構うよ。ダメに決まってんだろ。誰だその物好きは。ぶっ飛ばすぞ」
という2巻での赤城とのやりとりも、好きな女の子への素直になれない反応という普通の見方という以外にも、母親の再婚相手に対する息子のような、親しい肉親に近づく人間への忌避反応という取り方もできます。

なによりも麻奈実が京介が三人目の親と呼べる存在であったという表現は、12巻で語られています。
麻奈実が言っているのは『俺と桐乃が付き合っている』件についてだろう。(中略)けれど麻奈実には、何一つ告げていなかった。(中略)それでも俺は、この話を内緒にしていた。親父やお袋と、同じ理由でだ。
8巻の後半で京介は麻奈実から「分かるよ。わたしも、きょうちゃんのことが好きだから」と好意を打ち明けられている。
しかし最後まで彼女に桐乃との関係を言えなかったのは、自分へ恋をしている異性への配慮ではなく、あくまでも両親への配慮と同じ理由なんですね。

そして二人の関係において麻奈実もまた同様の精神構造を持っています。
京介が他の女性、黒猫やあやせと付き合った時に、悔しさを覚えつつ彼が幸せなら祝福しようとする。
この自身を殺しても相手の幸せを願うという見返りを求めない心の動きは、母親の息子に対する感情に近いんですね。
京介と比較すれば、彼女にとっては彼は愛する異性という側面が強いのですが、同時に愛する息子のような存在だったのです。

彼女が否定してきた近親相姦、インセスト・タブーという概念。
しかし家族という概念は肉体的なものだけではなく、精神的にも存在する。
京介と長い年月を過ごすことで築いた擬似的な母子関係によって、彼女の恋は報われなかったのではないでしょうか。

2014年3月4日火曜日

俺の妹がこんなに可愛いわけがない 来栖彼方と真田信也

来栖彼方ルート

来栖加奈子(CV.堀江由衣)の姉のプロ漫画家、来栖彼方(CV.釘宮理恵)には当初はPSP版にて京介とのルートが予定されていたらしく、完成しなかったことが非常に非常に惜しまれる。
桐乃が義妹でしたなんてガッカリオチの話を作るよりも、こういうサブキャラを掘り下げのほうが余程欲しかったというのが個人的な感想だ。
同じifでも、やるなら極悪桐乃編の方だろ、常識的に考えて。

そんな私怨はともかく、そのありえたかもしれない話についての想像である。
この作品の登場キャラの中で名前が紹介され、更にはイケメンで元中二病という設定までついている割に、全く語られなかったサークル小さな楽園の真田信也の話に繋がる話になったのではないだろうか。
  • 彼方は京介との初対面の時に必ず「顔が非常に好みである」と評している。
  • 彼女は黒猫愛読のmascheraの作者である。
  • 沙織の過去話においてmascheraの主人公は真田信也をモデルにしている。
  • 彼方と真田信也は中学時代に先輩後輩の間柄であり先輩と呼んでいる。(槙島香織も当時を知っている)
  • 彼方は信也をからかいなのか本気なのか分からないが「超カッコよかった」と評している。
  • 高坂京介はmascheraの主人公のコスプレが似合う。

以上の断片情報を並べると、真田信也は京介と似ており、上位互換イケメンであった筈である。
そして京介に第一印象でかなり高い好感度を示した彼方は、過去に真田信也に好意を持っていた可能性が高い。

これをさらに補足する情報として、mascheraの主人公の名前は来栖真夜(くるすしんや)である。
自身の苗字と相手の名前を組み合わせる、これはモデルにしたという以上の意味合いを読み取れるだろう。

香織の帰国で集まるように真田信也とは未だに良好な関係であるようだ。
しかしPSP等に描かれる彼方には現在男性の影がない、となるとこの二人の関係はどういうものだったのだろうか?

恐らく、想定されていたシナリオでは、京介と彼方が接近する中で、真田信也という人物についても描かれる物語になったと思われる。



真田信也がサークルを抜けた理由

小さな楽園で主催者の槇島香織以外で名前が判明しているメンバーは三人

  • 来栖彼方
  • 真田信也
  • 星野きらら

しかし、カメレオンドーターにて沙織が上げたメンバーが辞めていった理由は4つ

  • 彼氏ができた
  • 友達が来なくなった
  • 医師を志した
  • プロデビューが決まった

この内、プロデビューが決まったのは来栖彼方で確定。
彼氏ができたは(恐らく)真田信也ではないとすると彼が抜けた理由は

  • 友達が来なくなった
  • 医師を志した

の二つに絞られる。


槇島香織の夫は誰か

PSP版の沙織ルートにて、槇島香織は自分の夫は幼馴染であり、自分の体を治すために医師になったと語っている。
同時に、自分の体を治したのはその幼馴染ではないとも。

サークルの崩壊が始まったのは香織が結婚した後で彼女は外国に行っているが、彼女の夫については一切触れられていない。
しかし結婚した相手がまだ学生であり、その後に医師を志したという可能性も否定はできない。

まだ名前の上がっていない人物か、真田信也がそうなのかは不明だが、裏側で人間関係が繋がっていることの多いこの作品内においては、香織の夫というのはこの2人の内の「医師を志した」人物の方である可能性が高いと考えられるのではないだろうか。


総論

以上を、現状から登場人物を増やさずに纏めようとすると、真田信也は医師であり槇島香織の夫、そして来栖彼方の片思いの相手、ということになる。
これが一番既存キャラのみで人間関係の穴を埋めることができる。
もちろん、友達が来なくなったので疎遠になったのが真田信也という可能性もあり、何より語られなかった4人目が男か女かも判明していない。
そもそも夫はサークルとは関係ない全く別人という可能性は悪魔の証明である。

ほぼ確定しているのは前記したように、来栖彼方が真田信也にかなり執心であり、京介はその真田信也に似ているということだけである。。

ファンとしては、ぜひとも来栖彼方について掘り下げた書き下ろし作品を期待したいところである。






追記

後から確認したのだが、アニメの二期三話にて、海外に行くと香織が語るシーンで驚く真田信也がいるので、上記した仮設である香織の夫と同一人物説は否定される。
原作者が書いている部分ではないが、脚本を書くなどかなり監修が入っていることを考えれば、アニメ版での情報も公式として扱うべきだろう。