2014年3月15日土曜日

俺の妹がこんなに可愛いわけがない 最終巻エピローグ解説 -箇条書き短縮版-


長文になるエピローグ解説の箇条書きバージョン 詳細な解説は元の記事参照

前提情報

・クリスマス時にスーパー京介であると宣言、以後は地の文で語らない隠された意図を持っている

・12巻冒頭のツンデレ会話で語るように、桐乃の言葉もこちらで意味を解釈する必要がある


解説

・桐乃が告白後に「二人の人生相談」をエロゲーの話で不自然に避けるのは過去に麻奈実が語ったような現実の兄妹恋愛の問題と向き合う恐怖から

・桐乃が京介に渡したエロゲーで兄妹が結ばれた後が描かれた作品がなかったのは、桐乃がそれより先の関係の存続を諦めているという意味

・桐乃は努力によって過去の「お兄ちゃん」のように振舞っているだけで、本来は京介ほど困難に挑める精神力はない

・今までに渡されたエロゲーの内容から桐乃の諦めに気がついた京介がスーパー京介を名乗る、この時点から読者には言わない意図を持つ

・期間限定の恋人は、桐乃が提案し桐乃が終わりと言う、京介は自分からは言わない

・桐乃が麻奈実に期間限定という話をしようとした時に、京介が止めている

・京介の嘘を見抜ける麻奈実に対して「実妹エンドやってやるぜ!」と言う、つまりスーパー京介とは読者に語らないが期間限定で恋人関係を終わらせるつもりがないという意味

・エピローグの行動は指輪を送ってキスをするという結婚式を再現する演出

・桐乃の「帰ったら、人生相談」という台詞は桐乃が中断させた「俺たち二人の、人生相談」の続き

・京介が自分の想いをエピローグのキスで伝えることで、ようやく桐乃は二人の人生相談をする決意が固まる


補足

・麻奈実が二人の関係を否定する兄妹恋愛の現実問題を語るのは京介の決意の確認のため

・麻奈実が対決の最初に語る「節目だから」とは、京介が諦めれば桐乃との関係を終わらせられる最後の瞬間ということ

・京介が期間限定で終わらせようと思っているなら、狙い通りに「普通の兄妹にもどる」ので卒業式の後に現れる必然性がない

・同じく京介が期間限定で終わらせようと思っているなら、大切にしているはずの麻奈実が告白までしても期間限定でいることを黙っている京介の行動が不自然

・二番でもいいと言った黒猫が『運命の記述』を破くのは、京介が桐乃と普通の兄妹にもどらないと知っているから

・「仕方ないで済ませていいことなんか、一個だってねえ」と言った京介が、麻奈実の語るように多くの障害があるからと関係を終わらせるというのは発言と矛盾する



以上により「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」の最終巻の結末は「完全なる桐乃エンド」である「今後も桐乃と恋愛関係のまま」ということになる






参考

俺の妹がこんなに可愛いわけがない最終巻 伏見つかさ先生へ「ラストについて」「次回作」などインタビュー!
http://blog.livedoor.jp/geek/archives/51398941.html

俺の妹がこんなに可愛いわけがない 互いを恋愛対象として認めたのはいつか? -桐乃編-

当初の桐乃の心情


桐乃は一巻の時点から京介に異性として好意を持っているわけではありません
その対象は過去の京介であり、彼女の中で理想化された「お兄ちゃん」へのものです。
つまり相反する現在の京介を否定するものです。
当初の彼女は自分の中にある理想像との摩擦により京介を受け入れることができない状態ということです。


一巻でエロゲーが好きであることを知った京介の台詞
「ああ。おまえがどんな趣味持ってようが、俺は絶対バカにしたりしねえよ」
への反応とは、麻奈実に否定されエロゲーに仮託することになった理想の「お兄ちゃん」への思慕を、初めて他者に肯定されたということです。
しかし、この時点では、まだ京介を「お兄ちゃん」だとは認められていない。
それでも「人生相談」を持ちかけざるをえないのは、これを彼に抱く期待を捨てられないからです


例えば、前日譚である雷雨の留守番において
桐乃は、俺と二人きりで他に見るやつもいないってのに、きちっと薄く化粧をしていて、それがまた俺たちの距離の遠さを象徴しているような気がした。
とあります。
後半は京介の感想ですが、同時に化粧をするという行為は異性として意識しているという証明でもある。
彼はこれを単純な距離感とだけ受け取りましたが、桐乃にとっては未だに残る過去の京介への意識の表出なのです。
このように、いつか理想の「お兄ちゃん」に戻ってくれるのではないかという淡い期待を持ち続けています

他にも、彼女はクリスマスの取材や偽装のデートの時に、京介がマニュアルにあるような理想的な対応を逸脱し、これに合致しない選択をすると怒ります
それは理想の「お兄ちゃん」であるならば、完璧なデートプランを考え、自分の気持ちを全て分かってくれるはずだからです。
本来ならそんなことは人間はありえないのですが、「冷戦」と表現される本物の京介との断絶の中で、理想がひとり歩きしているために起こっています。

常に期待しつつも失望し、現状の彼を肯定できないという相反する感情から、どうしても素直な感情を表せない。
それが彼女を定型文化すればツンデレと表される精神状態にしている原因です。


だから、「今の京介」という人間に好意を抱いていくのは物語開始後から父親と対決して以降の行動によるものです。
つまり、桐乃の心理としては、同一人物でありながら、別の人間に恋をしているような状況です。
初期の彼女は喩えるなら死に別れた過去の片思いを引きずっている状態なのです。




理想を否定するきっかけ


京介が過去の自分である「お兄ちゃん」の解体のきっかけを与えるのが、桐乃の『断固たる決意』を否定する5巻の海外留学先の桐乃への説得です。
この『断固たる決意』とはつまり、桐乃自身が行っている理想の「お兄ちゃん」を目標とする努力、言ってしまえば理想への同一化行動です。

それを京介自身が否定する。
今の桐乃を否定することは、潰れそうになった過去において、自分が理想を演じた行為を否定するんですね。
「できるわけないでしょッ! そんな情けないこと! あたしを誰だと思ってんの!?」「お前は俺の妹だ!」(中略)「おまえはもう、頑張らなくていい。凄くなくてもいい。(後略)」
この一連の流れは、京介の視点では自分のわがままで彼女を止めていると描写されます。

しかし桐乃にとっては、彼女がどんなに努力して再現してみても、理想の「お兄ちゃん」というものは決して存在できない空想上の存在であると認識させる行為です。
この挫折によって「自分が努力して何でもできるように、本当なら京介もできたはずだ」という今の京介を否定するための理論が破綻するのです。

そして同時に、理想的な人間でなくとも受け入れ肯定するという範例を示したと言えます。


この限界になっている相手を助けるという行動は、8巻にて京介が落ち込み桐乃が助けるという黒猫疾走事件ににて「鏡写しのような事件だった」と表現されています。
その時に京介は黒猫を連れ戻そうとする桐乃を見て
「決まってんでしょ! あたしは! あんたを連れ戻しに来たの!」惚れ惚れするような喝破だった。どんな無理難題も吹き飛ばすような力強さ。……かっこいい。不覚にも、そう思ってしまった。(中略)すぐ間近でこれをやられたのだとしたら、誰だろうと一発で惚れてしまう。
と感じている。
この鏡写しになっているということは、5巻の京介の行動において桐乃も同じ感想を抱いた可能性が高いということでもあります。


だから最終的に彼女が帰るという決断をすることは、存在できない過去の「お兄ちゃん」ではなく現在の京介を選んだという意味を持ちます。
しかし、それは京介の成長により、桐乃の中の理想の「お兄ちゃん」像へと近づいているという意味を同時に持っています。
未だ、現在の京介を全て肯定できているわけではない。

この時点では、まだ京介への恋は過去の「お兄ちゃん」と完全には分化されていません
現在の彼に惹かれつつも、同時に彼を通して過去の「お兄ちゃん」を見ている状況です。




現在との統合


桐乃が「お兄ちゃん」の存在を明確に否定できるようになるのは、黒猫の行動によるものです。
9巻の「真夜中のガールズトーク」にて明示されています。
「……あんたさ。好きな人の顔、頭に思い浮かべてみ」(中略)「そんな人はいないよ」あたしもようやく、認められるようになってきた。ずっとまえに指摘されて。認められず、いなくなったと思い込んで――バカな日々を過ごしてきた。遠回りして、すれ違い続けてきた。本当は、ずっと側にいてくれていたのに。(中略)「だから、ちゃんと本当のあいつのこと、見てやらないと」
京介が人間的な弱さを見せたことにより、彼女は自身の中で肥大化した理想像としての「お兄ちゃん」を否定し、同時に現在の京介を普通の人間として肯定する必要性を認識しています。
桐乃の認識として、京介が桐乃の抱く理想の兄のイメージへと近づいていたのですが、そうではなかったと気がつくのです。

そして同時に、現在の京介への想いが、想像の中の「お兄ちゃん」を超えているということでもあります。

この黒猫に向けた「本当のあいつのこと、見てやらないと」というのは同時に自分への言葉となっている
だから、ここからは過去に抱いた理想を否定しようとしている。
しかし、「見てやらないと」いけないという言葉は、未だ「そうしなければならないと自覚した段階」であり、まだ完全に過去の理想を排除できたわけでないということでもあります。
それは上記の会話の前にある「そしていまもたぶん、理解できていない。」という一節にも現れています。




「お兄ちゃん」からの脱却


そして京介を一人の人間として認められるのが、11巻での麻奈実との対話で
「(前略)『お兄ちゃんっ子』だった当時のあたしは、『背伸びしていた兄貴』のことを、カッコいいって思ってたの。頭がよくて、足が速くて、誰よりもがんばってて、自分のことを特別な人間だと思っている――そんな人にあたしもなるんだって、憧れてた」(中略)「――でも、そんな人はいなかったんだよね」
「あたしが憧れていた人は、結局どこにもいなかった。いるのは、いまのこいつだけだよ」
と自分自身に向けて口に出せた瞬間です。
これによって桐乃は恋い焦がれた想像上の「お兄ちゃん」を完全に否定し、その対象が現在の京介となるのです。

だから麻奈実すら「せっかく直ったと思ったのに、悪い癖、再発しちゃった?」と、過去の京介に戻りつつあるのではないかと感じた時に
「いまの兄貴は、『昔の兄貴』に、戻ってなんかいないよ」
と答えることができる。

本人よりも京介を理解していた麻奈実に対し、この瞬間はそれを上回ったのです。
それは何年にも渡り理想と現実の京介の間での懊悩を抱え続けていたがゆえの成果でしょう。


総論

以上のように、京介に対して桐乃が恋心を抱いていくのは1巻の京介の行動からということになります。
それまでの好意は、過去に抱いた想像上の「お兄ちゃん」へのものであり、それは現実に存在する彼ではない。
だから、理想のような人であって欲しいという期待は抱いても、決して今の彼を肯定はしないのです。

桐乃が幼少期の理想の恋から脱却し、人間としての異性として京介を正面から見れるようになる過程が、この物語の一つの大きな骨子となっているのです。

俺の妹がこんなに可愛いわけがない キャラクター考察 麻奈実


ヒロインだったはずが最後には「魔王」などと表現されてしまう彼女。

彼女は実際に
「――きょうちゃんは、ごく平凡な男の子なんだから」
『普通の兄妹に――――なりなさい』
という京極夏彦作品なら言霊や呪と表現される言葉を桐乃と京介に伝え、結果として今の二人を産んでますから、この作品の状況を創りだした影の支配者と言ってもいいポジションなのは確かです。

しかし、11巻で語られたように限界だった京介の頑張りを否定して助けたこと、その言葉で成長した京介によって海外留学で潰れそうだった桐乃が助けられたこと、さらに昔の彼では桐乃の想いに答えられずに兄妹の関係が破綻していた可能性が高かったこと、彼女の言葉によって桐乃と京介は救われていたのです。

彼女は京介にとって倫理、平穏、日常といったものの象徴であり、Fateにおけるラスボスが「この世全ての悪」であるなら、麻奈実は俺妹の世界における「この世全ての善」と呼べる存在と言えるでしょう。


アニメ化に際して最も表現不足になったヒロイン


桐乃と動揺に複雑な表現がある人物なだけに、アニメ化に際して描写不足で一番割りを食ったポジションだと思います。

アニメではその善性しか描かれなかったのですが、原作だと人間として、女の子としての部分がしっかりと掘り下げられています
それはもう別人と表現してもいいぐらいに。

なので京介と桐乃に感情移入しながら見た私には、最初にアニメを見た時は心底嫌いになりましたが、原作を読んでから真逆と言って良い程に見え方が変わりました
原作の麻奈実は可愛いかった!
もう同じキャラクターとは思えないですよ!


桐乃、黒猫、あやせ等他のヒロインもアニメではカットされている良い話は沢山あるのですが、一人を上げるならば麻奈実しかいません。
  • 京介が心配する黒猫に嫉妬して自己嫌悪する
  • 11巻での桐乃との会話に登場する過去の行動
  • 彼女の一人称視点になる可奈子との会話
  • 京介の為に自身を磨こうという決意して髪を伸ばす
  • 12巻対決での「節目だから」に続く彼女の意図
  • 京介の麻奈実の意図を解説する独白
こういった麻奈実の内面を類推させる描写がない為に、非常に無機質な非人間的存在になってしまっています。
京介の為に外見を磨こうとする点と、なによりも卒業式の対決の真意を表現する描写で、本当に印象が変わりました。

麻奈実との卒業式後の対決は、アニメでは倫理の体現者を相手にする印象でしたが、小説では京介を心配する女の子が説得しようとしている、というぐらいに見え方が違います。




卒業式の対決の真意


卒業式の対決は、彼女の意図を気づかせる大事な描写が尽くカットされています。
「節目だから、かな」
涙ながらの愛の告白ーーそれはあまりにもタイミングが悪すぎて。だから察してしまった。
ああ、分かってるさ。だからいま、告白したんだよな。
これらがないと、彼女の行動が京介への恋心から、京介を取られた腹いせに倫理を盾にして二人を糾弾しているだけのように受け取れてしまいます。

しかし上記の内容から彼女の意図を把握すれば、自分の恋心のために二人の関係を否定するというのは二の次であり、京介に兄妹での恋愛の困難を再確認させ、それでも意志を曲げないのか問いかけているということに気がつけます


なぜならこの時点で京介は桐乃との関係を期間限定で終わらせないと決意しており、最初に語る節目とは京介が桐乃との関係を諦める最後の瞬間を指しています
京介の決意についてはこちらで解説しています


最後の対決を、京介のために自分の恋心すら犠牲にした献身としてその言葉を読み返すと印象が全く変わります。


頑なに二人の関係を認めない理由。
彼女にとって倫理がどうのといったことは本来は瑣末なことで、単純にそれが京介が普通の幸福を得られる道ではないからです。
黒猫との関係を祝福したように、彼女の行動原理は京介が幸せになれるならば自身の想いすら切り捨てることを厭わない。


だから「誰も言わなかったみたいだから、わたしがはっきり言ってあげる」のは、京介と桐乃の友人達が最終的に皆二人を祝福したが故に、誰かが突きつけなければならない事実を語るという悪役をあえて引き受けているのです。


告白という自分が差し出せる全てをかけて京介を止めようとするのは、自分が与えられる平穏な日常と、桐乃との恋愛関係は相容れないからです。

京介が「桐乃を選ぶ」と決意すれば、もう彼のためにしてあげられることがない。

そして京介を理解している彼女は、彼が一度決意したことを曲げないということも知っている。
だから絶対に失敗するという「タイミングが悪すぎ」る告白をすることになる。

あの告白とは自分のためではなかった。
可能なら彼が困難な道を選ぶことをやめさせたかったが、それができないなら自分という最後の逃げ場を失わせ、苦難に立ち向かわなければならない京介に覚悟させるための告白だったのです。


総論


卒業式の対決での彼女は魔王ではなく、最後の敵に挑む京介に「そんな覚悟で大丈夫か?」と警告してくれる存在だったというわけです。

京介への「愛」という点では、本作品で最強だと思いますね。
恋愛だけではなく、母性愛や友情も全て含んで京介を幸せにしようとしている。
京介との関係性の描写が薄く、親子というよりも姉のような京介の母親より、よほど母親としての役割を負った存在であったと言えるでしょう。
つまり京介はシスコンでありマザコンというハイブリッドであったと。

最後まで明かされませんでしたが、麻奈実はなぜここまでの愛を京介に対して抱いたのでしょう?
「お兄ちゃん」への憧憬に似た恋心とその断絶から、京介の行動を見て現在の彼に惚れていく過程が描かれた桐乃と違い、麻奈実がこれだけの無償の愛を京介に向けた理由が俺妹最大の謎かもしれません。

2014年3月14日金曜日

俺の妹がこんなに可愛いわけがない 最終巻の結末と解釈 エピローグの読み解き方 -改訂版-

初期の記事が長すぎて読みづらいので、分割しての改訂版です。




最初に結論


この文を最後まで読んで頂ければ分かると思うのですが「今後も桐乃と恋愛関係のままでハッピーエンド」ってオチですよ、この話。

何故かレビューサイトを見てみた限りでは「二人は別れて普通の兄妹に戻りました」というものを前提の解釈や考察が多いようです。

確かに一度は別れているのですが、それは過程に過ぎません。
そもそもエピローグのメルルの指輪の存在にすら触れていないところもあるぐらいです。
あれだけ明示的に描かれながら、意味が無いと解釈する方が不自然でしょう。

何より「別れて普通の兄妹に戻る」という結論は、京介が最後の麻奈実との対話時に語った「この物語のラスボス、俺が立ち向かうべき敵」に対することすらせずに物語が終わってしまいます。
彼はこの時に「倫理とか、常識とか、世間体とか」に「立ち向かう」決意をしているわけです。

そもそも最後に唐突に桐乃が叫ぶ「帰ったら、人生相談」の意味。

そこから見えてくる結論は次の項を読んで頂ければ分かると思います。




エピローグにおけるメルルの指輪の重要性とツンデレの意味


この作品自体が、細かい描写に人物の意図を配置する構造なので、精読せずに一度だけ流し読みする人は見落とすかもしれません。


解釈のための前提情報

エピローグの行動で、重要な項目は
  • 桐乃が婚約指輪を返しているが、代わりにメルルのおもちゃの指輪を要求する
  • 京介はおもちゃの指輪を送った後にキスをする
という二点。

そして同時にクリスマスの京介による
ところで物語の語り部ってのは、読者よりもちょっとだけ察しが悪いくらいが良いさじ加減なんだってよ。クソ喰らえだね。悪いけど、俺、それはもうやめたから。
という言葉です。

語り部でありながら、今後は読者よりも先んじて思考する「スーパー京介」になるとここで宣言している。
これは宣言の前にある「俺が妹に押しつけられてきたエロゲーの中にはなかった。それってなんでだろうな?分かるかい?俺は分かったよ。」に対応している。

彼はここの時点、桐乃から期間限定という話を提示される前にその真意に気がついて、読者に明示せずに独自で行動することにしたのです。
つまり彼は、これ以後の行動で、地の文では説明しない意図を隠匿している。
そうでなければスーパー京介になるという宣言は必要ないのです。
エピローグでの京介の真意を探るためには、地の文だけに頼らずに、行動から彼の思惑を類推する必要があるのです。

アニメではカットされてしまっている、この二つの流れが、京介の行動の意図を読み解くために必要になっています。


行動意図の解説

桐乃はエピローグで「京介から送られた指輪」という存在を、婚約指輪にした高価な指輪から、兄妹の贈り物と表現できる安価なオタクグッズへ変化させています。
桐乃は公に認められる結婚の為の婚約指輪は返していますが、それでも指輪という男女の契約に使われるものを、京介への秘められた恋の象徴であった妹萌えというオタク趣味のものとして持ち続けようとしています。
つまり桐乃の気持ちは変わっていない、という表現です。

でなければ唐突にエピローグで指輪をねだるシーンが挿入されるのか説明がつきません。
キャラ物のおもちゃの指輪という子供対象のアイテムを、秋葉原という立地で店頭に置いて売っている店があるのはそもそも不自然なんですよ。
逆に言えば、不自然を押してでも指輪を送るという描写が必要だったということになります。


そして、その行動に対する京介は指輪を送った後にキスをする、というものです。
指輪を渡してキスをするという行動は、つまり京介は結婚式の様式を再現しているのです。


つまり指輪をねだる桐乃の「兄妹なんだから別にいいでしょ」という言葉は、
兄妹という普通の関係に戻ったのだから贈り物の指輪を持っていても問題がないでしょ」という意味です。

その後にキスをした後の京介の「兄妹なんだから別にいいだろ?」という言葉は、
恋人を公言する期間は終わったけれど兄妹でキスをする関係でもいいだろ」という意味です。

それを受けた桐乃の「エロゲーじゃないんだっつーの!」というのは、
エロゲーのようにその関係が簡単には上手くいくわけではない

だから「帰ったら、人生相談だかんね!
帰ったら二人で今後のことを相談しよう」という意味になります。


この桐乃の台詞の変換は、一見すると強引な解釈にも見えますが、これは12巻の冒頭で京介がクリスマスに誘うときの会話で提示されています。
「え? おまえの『はぁ? ばっかじゃないの?』って、『いいよ。ちゅっ?』って意味なんじゃないの?」 
つまり……さっきの『ばっかじゃないの?』にはゲームとは違う桐乃さまならではの意味が込められているので、ちゃんと察して対応しなさいよ、ってことか。

というようなツンデレキャラりんこりんをネタにした会話で描かれる「桐乃の言動は深読みしてその意図を察しろ」という部分です。

物語の冒頭というのは読者にとって一番最初に目に入るシーンです。
この会話が配置された意図は桐乃の言葉には裏の意味があるので察してくださいね!という注釈となっているわけです。

クリスマスに京介がしなければ、自分から告白しようと思っていた桐乃が、本来ならば意図通りのはずの誘いに「はぁ? ばっかじゃないの? 死ねば?」と返答する。
これは単純なツンデレではなく、冒頭と結末という対比する箇所に配置することで、その演出が関連しているということを示す意味があるというわけです。


このように地の文で全てを語らないスーパー京介桐乃の言葉の裏という二つの明示されていない情報が存在し、それを踏まえて二人の行動の真意を読者が解釈しないといけないのです。




なぜ桐乃は「期間限定」と言い出したのか?告白後の二人の意識のすれ違い


この段階でも、結論は見えると思うのですが、全体を通してのエピローグに続く伏線の話に行きましょう。

エピローグを一読しただけだと分かりづらい内容としているのが、最後まで桐乃と京介に認識の違いが発生しているということです。
これが分かっていないと、エピローグの意味が全く変わってしまいます。
何故、「期間限定」の恋人という話が出てきたのかも、ここに関わってきます。


麻奈実との対決の場面での行動の違いが顕著でしょう。
桐乃が二人の関係は期間限定であると告げようとし、それを京介が止める

それ告げれば、最後の麻奈実からの捨て身の告白まで行き着くことなく、終わった後にも今までどおりの関係を維持でき、いずれは恋人になる可能性が残る。
期間を区切ること、麻奈実との関係を破綻させないこと、それにより桐乃は自分との関係が終わった後の逃げ道を京介に残そうとしたのです。


しかし京介は告白以後、関係の終わりを前提に行動してはいないんです。

なにしろ恋人関係の期間限定の話は「桐乃は俺に耳にそっと口を寄せ――こっそりと秘密のお願いを囁いた。」というように提案するのは桐乃です。
そして結婚式の後に「はいっ、終わりっ!」とその終わりを言い出すのも桐乃なんです。

京介は桐乃の為に彼女の提案通りに行動しているだけであり、自身からそうしようとは一言も言っていないんです。


桐乃の考え方を証明する記述としては、麻奈実との対決が終わった後の
「(前略)あんたがあたしのワガママのために、どれだけバカなことしちゃったのか!自分で分かってる!?」 
「(前略)終わっちゃったら……あんたには、何も残らないのに!それにーー!」
という台詞が象徴するように、京介からのあれだけ告白されてもこの関係を「自分のワガママ」で「自分にしか残らない」ものと思っている。
つまり自身の想いにつきあわせて、無謀な道に京介をつきあわせてしまっている状態と思っているんですね。


桐乃の京介への恋をゲームに仮託して語るのが、11巻ソーシャルゲームの会話のシーンで、
「分かってんのよ――この娘が電子データで、シスゲーのサービスが終われば蜃気楼のごとく消えていく運命だってね。鍛え上げたパラメーターは無意味になって、イラストを見ることもできなくなって、あたしの手元には何も残らない」
それでもなお、残るものがあるのだと。桐乃は目をつむり、優しい声で言葉を紡ぐ。
「楽しかったゲームの思い出は、サービスが終わっても消えたりしないし、この娘の顔はあたしの心に焼き付いている。――絶対忘れたりしない」
シスゲーのサービスが恋、娘の顔は京介との思い出、と読みかえれば、この独白は端的に桐乃の見据えている京介への恋の結末を表していると思います。

それは11巻巻末で黒猫ととあやせと語るシーンでの
「……さっきは『勝手にすれば』なんて言ったけどさ。卒業まで……待ってくれないかな」(中略)「卒業までに、色んなことにケリを付けていくつもり。あたしだって、いまの状況が普通じゃないって、よくないって分かってる。だから――そういうのは、あと数ヶ月だけ、待って」
にも現れていると思います。
つまり、彼女にとってはどう転んだとしても「ケリを付け」なければならないことであり、この恋をどこかで終わらせなければならないという認識をもっている。

だから今まで何度も「ケリを付け」るために、海外に陸上選手として留学し、偽の恋人を作り、黒猫との恋を応援し、また卒業後にモデルとして海外に行こうとする。
この作品において、一つでも京介の行動が失敗していれば、彼女はその恋を諦めていたのです。

そして想いが通じあった段階においてもなお、恋人を続けることは無理であり、その記憶は京介にとって過去になるとしても、自分の中には大切なものとして残り続ける。
そういった認識なのです。


その桐乃の意図に対して京介が気がつくのが、
(前略)厳しい兄妹の現実を描くエロゲーも、たくさんあるのだろう。だけど俺がプレイした妹ゲームの中にはなかった。俺が妹に押し付けられてきたエロゲーの中にはなかった。それってなんでだろうな? 分かるかい?俺は分かったよ。
というスーパー京介宣言のシーンです。
桐乃が京介に押しつけたもの、京介に共感して欲しかったこと。
つまりは彼女が京介に押し付けてでも要求しようとしたのは自分の好意を示し、それを肯定してもらうまでなんですね。
これは一巻でオタク趣味を「おまえがどんな趣味持ってようが。俺は絶対バカにしたりしねえよ」と言われたように、自分の想いを否定しないで受け入れて欲しかったということです。

京介が麻奈実に対した時に独白するように
――全部捨てられても。好きでいることだけは、やめない。桐乃はあのとき、そう決断した。
ということは、つまりいつかは全部捨てなければならなくなると、既に思っているということです。

その先を続けていくことは無理だと最初から諦めている。
決してキレイ事だけでは済まないと認識しているからこそ、彼に対しては求められない。
それでも「好きでいることだけは、やめない
それが桐乃の持っている自分の恋の終着点です。





本当は一般人な高坂桐乃


こういう結論を抱くように、桐乃という人物はとても理性的な、そしてごく普通の一般人として精神構造をしています。

理想の「お兄ちゃん」を目指して努力することで成長した彼女は、一見すると過去の京介のように自分を特別だと思い、どんな物事も諦めずに克服しようとする精神構造を持っているようで、根本的なところは違うのです。


それは初めての夏コミであやせに詰め寄られた時のように、突発的な自体には弱いということが証明しています。
つまり、落ち着いて努力してきた物事に対してならば困難にも立ち向かえるのですが、その基板となっているのは天才ではない、ごく普通の中学生の少女のものです。

黒猫に振られた京介を慰めて温泉街まで追いかける時も、まず最初に「自分が同じ状況だったらあんたはどうしてくれた?」と彼に問いかける。
桐乃さんカッケー! 惚れてしまいそうだ!」と語られた、黒猫を連れ戻した時の一連の行動は5巻で桐乃を連れ戻した京介を手本としています。

そして9巻の日向視点で桐乃が黒猫に対して語る「こいつがいなかったら、あたしの人生もっとつまんなかったし」という台詞も、7巻で京介が語る「おまえのおかげで――俺の人生には、楽しいことが増えたからよ」と相似形になっている。


このように桐乃の行動は、過去と現在の京介の影響も大きく受けている。
そして彼女の根源的な行動規範とは9巻における
あたしは今回、ちっともいい妹じゃなかったし、いい友だちじゃなかった。あの人の足元にも及ばなかった。……あ、やば。この思考の流れはマズイ――
でしょう。
この「あの人」とは理想化された過去の京介を指していますが、つまりこの思考方法こそが彼女が自身の状態を認識するときの基準となっている。
常に彼であるならば、どういう決断をしただろうかと意識して行動しているということです。
全てにおける規範となる理想とは、もはやキリスト教における内的な神のようなものですね。


だから京介や「お兄ちゃん」というお手本がなく、努力の方法も分からない、幼少期に抱いた自分の原点となる恋心に対しては、彼のように不屈の精神で挑むことができない。
なぜならそれに対する答えを、過去において京介は示してないからです。

どれだけ好きでも兄妹での恋愛が周囲に祝福されないことは分かっていて、その終わりを最初から受け入れているんです。


京介視点で見るしかない桐乃

これが京介の視点からのみでは少し理解しづらいのは、当初の彼が敵わない生まれついての天才として桐乃を見ているせいです。

そして彼女も京介に対して、その好悪の入り交じる感情を処理できず、結果として理不尽な要求を暴力やワガママとして押し付けるという形で行動するからです。
つまり不器用な方法で甘えている状態ですね。
それは9巻での桐乃視点でも「あたしっていつもそうだ。大事なことほど、なかなか相手に伝えられない。」というようにも語られます。

5巻にて京介は赤城兄妹の電話のやりとりを見て
瀬菜は、しゃくり上げながら、兄に事情を説明しているようだ。その声は、相手を完全に信頼しきっていて――――何故か、ずきりと心が痛んだ。こいつにとって兄貴は、しっかり者の仮面を脱ぎ捨てて、子供っぽい自分をさらけ出して甘えることのできる相手……なんだろうよ。
と感じていますが、これは彼の主観でのことしかない。
実際は、桐乃もまた自分の子供っぽい部分を京介へさらけ出している訳です。

それは10巻になって、あやせが学校の桐乃を語る時に、ようやく京介も気が付きます。
(前略)友達が家に遊びに来たとき……桐乃のやつは確かに猫を被ってやがった。猫を被って気持ち悪いブリッコしてやがるとしか――俺には見えなかった。
けど……そうじゃないとしたら? 別に無理してブリッコしているわけじゃなく、あの桐乃も、確かに桐乃の一面なのだとしたら。
対人関係において、当初あやせや可奈子に対していた外側向けの対応と、感情のままに対応してしまう京介と、彼から作ってくれた関係である黒猫、沙織の対応の違い。

それは、あやせを本心で親友と呼べるように、外面を作って偽物の関係性を維持しているという意味ではなく、他者に対して、この理性をどこまで緩めるかというコントロールの違いなんです。

これは、どちらも桐乃という人間の本質であり、それは大人と子供の友人関係の距離感のように、どちらが正解でどちらが嘘というものではありません。

しかし、大人として理性的であらねばならない学校での友人関係では見せられない面、つまり子供の部分を残し、他人には見せるのが憚られる本心を京介には見せている訳です。




桐乃の中の理性と感情の対立


そして、クリスマスの京介の告白時、「あんたなんか大っキライ!」として拒否しようと行動する姿勢が、桐乃にとっての理性での答えです。
それを吐き出した上で、「結婚してくれ」という言葉に「はい」と涙ながらに応じるのは、理性が隠そうとしている桐乃の感情なのです。

その後に
一次はあんなに盛り上がっていたのに、寒い中歩いて、途中でお茶飲んだりして――一時間が経ってさ。
二人共正気に戻ってしまった。
この正気に戻ったということは、告白の衝撃によって緩んだ桐乃の理性が、時間を置き冷静になることで強くなっていることを示しています。
だからあれだけ切実に望んだ関係に期間限定を設けようと提示する
期間限定という提示は、桐乃の理性によって感情で望んでいた恋を終わらせなければならないと葛藤した結果です。


告白後、京介が「俺たち二人の、人生相談だ」と兄妹での恋愛の現実的な問題と向きあおうと切り出した時に、桐乃が「その前にエロゲーをクリアしたい」と明らかに話題を避けるように言い出すのは、復活した理性による現実への恐れから、その話を語ることができなかったからです。
その後のシーンですが、ゲームを中断してしまう時の京介の
たぶん数秒前の俺も、似たような心境だったのだろう。うまく言葉にはできないが――怖いってのが一番近いか。ようやく気持ちが通じ合って嬉しいはずなのに、なのになのになのに――ってな。
という部分にあるように、期間限定の提案とは二人の気持ちだけではどうしようもない現実と、その恐怖からの逃避行動だったのではないでしょうか。

そして、前記したように桐乃の精神は努力の方法がない困難に対しては弱いのです。

さらに桐乃は京介は自分につきあってくれているだけで、自分と同じように世間に認められない愛を京介に求めてはいけないと思っている。
桐乃は自分だけの感情では厳しすぎる現実の問題とは向き合う勇気が持てないでいるのです。




桐乃とは違う京介の決意


京介の心情としては麻奈実対決後に語られています。
妹のために、じゃなくて、自分自身のために、だけどな。
おまえは最初から、女子中学生のくせにエロゲーやってる気持ち悪くて有り得なくて世間様に顔向けできないやつだったじゃねぇか。
それが俺にも伝染したってだけのこと。 
後者の方はエロゲーというものに暗喩させた兄妹への恋愛感情のことですね。

過去の「お兄ちゃん」と現在の「兄貴」という京介への認識の変化があるのですが、物語の最初から桐乃はエロゲーにその思いを仮託せざるをえないぐらい京介という人間に愛情を抱いている。
それに対して、その思いの強さは自身も同じだと、ここで京介は語っています。


何よりも京介は
おう、近親相姦上等だ! 実妹エンド、やってやるぜ!
麻奈実に言っている
桐乃へ言うことや、一人称の地の文で言うのであれば嘘の可能性がありますが、麻奈実に言っているということは嘘ではない

京介の嘘が麻奈実には通じないことが、作中で何度も明言されています。
この言葉に対して、殴るというリアクションを取ることが、彼が本心から語っていることを示していると言えるでしょう。


だから、京介はエピローグにておもちゃの指輪とキスで結婚式を再現することで、期間限定の恋愛が終わった後にも変わっていない自身の気持ちを伝えた


その意思を受け取ったからこそ、後に続くのが「帰ったら、人生相談だかんね!」という言葉に繋がるのです。
その内容は今度こそ本当に「俺たち二人の、人生相談」をするということでしょう。

ここでようやく桐乃は、相手から告白されたという状況ですら向き合えずに逃げてしまった、二人の今後について考えることができるようになる。

京介が行動によって示すことで、桐乃は諦めきれない自身の想いを、厳しい現実と折り合いをつけて存続させる勇気を持てた。
自分一人の一方的な感情ではないと理解できたからこそ、二人の人生相談ができるようになるのです。


今までの陸上やモデルといった結果の元となる程に強い京介への想いを、期間限定で殺さなければならないと桐乃が思った時に、京介が自分も同じように諦めたくないと答えを返す。
二人の恋愛感情を周囲への秘密としてこれからも抱き続ける。


それがこの文章の末尾のリンク先にて、伏見つかさ先生がインタビューで語っている
・「最初の人生相談と同じように、兄妹は、二人だけの秘密を抱えて終わる」
ということなのです。
京介の想いの強さが桐乃に全て伝わったのは、今までのように大声を張り上げたクリスマスの告白ではなく、エピローグのキスの瞬間なのです。




桐乃以外には理解できていた京介の本心


桐乃以外のヒロイン達は告白する時に京介の決意に気がついていたと思われます。
そしてそのことが、京介が諦めていないことの証明にもなります。
本項では麻奈実と黒猫について考察します。

麻奈実の場合

そもそも「麻奈実は俺のことを俺よりも分かっている」と語られる程にその本心を読み取った麻奈実が、京介が期間限定で桐乃との恋を諦めていたら、気がつかない筈がないのではないでしょうか。

京介が終わらせると決めているならば、麻奈実はあえて最後の日に自分が厳しい現実を彼らに語るとは思えません。
卒業式の後に、彼女が再三と提案してきたように「普通の兄妹にもどる」のならば桐乃と京介に関係の困難を突きつけることなく見守ってあげるという道をとったと思います。
翌日に本当に全て終わるのならそんな必要はないのですから。


麻奈実は本当に京介を大切にしています。
同時に桐乃にも、複雑な思いを抱えつつも決して彼女が不幸になれば良いとは思っていない。
むしろ二人が幸せになれるためにと、善意から普通の兄妹にもどることを望んでいる。


彼らの友人には誰もできなかった、兄妹での恋愛の先にある厳しさを語る
「誰もいわなかったみたいだから、わたしがはっきり言ってあげる」
に続く一連の言葉というのは、自身が憎まれ役となっても、京介の選択の意味を再確認させるためのものです。

この物語を通読すれば、麻奈実は京介を奪われた嫉妬だけで、恨み事として二人の関係を否定する内容を語るような人間ではないと分かるはずです。

彼女は自分の想いよりも京介の幸福を強く望んでいる。
そうでなければ黒猫とつきあった京介を祝福するはずがないでしょう。
俺の幼馴染みはいつだって、自分のことは後回しにして、人の心配ばかりして……自ら進んで貧乏くじばかりを引いていく。(中略)麻奈実は俺のことを俺よりも分かっている。
「人の心配」というのは、つまりは「京介の心配」のことです。
この一文だけでも、彼女の行動原理が分かるのではないでしょうか。


綺麗ごとだけではすまないからこそ、それを告げるという一番割にあわない役を、あえて引き受けるという行為は、麻奈実から京介にしてあげられる最後の行動だったのです。
そしてこれは、この言葉を告げる必要性がある決断を京介は既にしているということを示しているのです。

もし麻奈実が知らなかったとしたら

逆にも考えてみましょう。
つまり、もしも京介が本当に期間限定で恋人関係を終わらせようと思っていて、それを気付かないままに麻奈実が告白したと仮定すると様相が変わります。

彼女が京介の意図に気が付かずに本気で二人を制止し、そして告白をしている状況で、京介は内心で桐乃との関係を終わらせると決めていても黙っている。
その行動は「麻奈実が困っていたら助けるためには命をかけられる」と彼女のことも心底大切に思っていた京介としては異質です。

この場合は、いくら桐乃への気持ちの証明のためとはいえ、期間限定を口にしないのは、言ってしまえば自己満足です。
そのためだけに麻奈実に勘違いさせたまま告白までさせ、それの状況を京介が静観するというのはおかしいのではないでしょうか。

なにしろ桐乃が告げようとしたのを、あえて彼女を止めてまで京介は麻奈実に言わないようにしています。
それはつまり本当は期間限定では終わらせないから。
それを語ることで、この場をお茶に濁す行為は、麻奈実に対して不誠実だからです。

つまり京介は諦めておらず、それを麻奈実は知っていたと仮定した方が、彼と彼女の行動に筋が通るのです。


黒猫の場合

きっと来世でも、好きになるわ」と語っており、あやせには妹が一番でも構わないとまで語った黒猫。
そんな黒猫が京介の告白で『運命の記述』を破らなければならなかったのも、二人の関係が終わらないことを理解していたからでしょう。
そうでなければ、あのまま彼への想いを持ち続けていればよかったのです。

二人が別れて、普通の兄妹に戻るならば、その後に桐乃を一番大切にしていても、京介が黒猫と復縁する未来は十分にありえることで、それも良いと彼女は肯定しているのですから。
一番でなくてもいい、と語った彼女がノートを破らざるをえなかった事実。
それによって彼女の予想している未来は示されていると思います。


そして京介の桐乃への想い告白された後に彼女が描いた『新約・運命の記述』は
『今の俺たち』を、そのまま描いたような作品だったよ。
とあります。
この絵に関しての詳しい描写はありません。
しかし、この時の「今」として語られる状況とは京介と桐乃が恋人であり、その横に黒猫と沙織がいるという場面です。
これは「闇猫」というキャラを演じることで自身の本当の傷心を見せないようにしたように、不器用な彼女なりの二人への祝福の表現でしょう。

このことからも、黒猫は二人が恋人関係を終わらせることはないと思っているという証明になるでしょう。

もちろん、黒猫はこの時点では桐乃が期間限定の恋人という提案をしていると知りません。
しかし本当に期間限定で終わるならば、それは彼女が『新約・運命の記述』を描いたことを否定する行為です。
それを京介が何も思わずに受け入れるのは、やはり彼という人物にそぐわないでしょう。


彼女たちの結論

以上の事実からも彼女たちは京介が期間限定で恋人を終えることがないのを見抜いていたと結論していいのではないでしょうか?

もちろん、期間限定の恋人という関係性に騙されたまま行動したという可能性も否定はできません。
しかし麻奈実が騙されたままに行動したという解釈は彼女のこれまでの京介の真意を見抜いてきた行動から逸脱しているのではないか、そして幼馴染みの行動を、その機会を自分で潰してでも止めようとしない京介もありえないのではないかと思います。
やはり彼女は全て理解した上で、あのような行動を取らねばならなかった理由があったとする方が自然でしょう。




総論


京介の出した答えは結局はこの一文に集約される訳です。
「桐乃、この世にはな、仕方ないで済ませていいことなんか、本当は一個だってねえんだよ」
麻奈実が語るように未来に困難が待ち受けていようとも、困難だから仕方ない諦めようという選択を彼が選ぶとは思えないでしょう?


「恋人や結婚という公の関係になることはできないけれど、二人の秘密として関係性を続けていく」
というこの結論は、近親相姦という社会一般に認められない関係の落とし所として、非常に現実的で美しいと感じました。

公言すれば周囲の人間に否定され迷惑をかけてしまう、しかしそれでも好きなものを諦めない。
この相反する問題への答えの出し方が、その一巻の桐乃のオタク趣味への結論から始まり、全ての物事について常に京介の選択となっている訳です。

3年前までの京介であればあるいはエロゲー主人公のように立ち向かったのかもしれません。

しかし、平穏と現実の象徴である麻奈実と、困難と理想の象徴である桐乃という二人の影響を経て成長した京介の答えとして、可能な限り現実と折り合いをつけても理想を捨てないという姿勢は、これ以上のものはないと思います。








補足・アニメ版最終話の多すぎる描写不足問題

アニメ最終話は原作の中でおもちゃの指輪を送るシーンがカットされているので、ラストのキスシーンが唐突過ぎるんですよね。

原作にあるクリスマス後のホテルでの二人の朝チュン描写もカット。
まぁ、文章と違って映像にすると露骨過ぎるので、これは仕方ないかもしれません。

しかし黒猫の描いた『新約・運命の記述』についてカットするぐらいなら、
桐乃と黒猫の謎のイメージ戦闘描写を削除するべきだったでしょう。

桐乃が麻奈実に「そ、それは――!」と期間限定の話を告げようとするシーンも、「桐乃が『約束の台詞』を口にしようとしたが、俺はそれを片手で止める」という桐乃の言おうとした内容を演出していないので、単に麻奈実の追求に言い淀んだようにしか見えません。
これは京介の決意を表す大事な行動なのに、何故?という感じです。

過去に渡されたエロゲーから桐乃の意図に気がつくスーパー京介について、代替となる演出もなしに削ってしまっているのは、もはや京介の最後のキスの真意を推測する方法が失われています


キスの場所の重要性

そして、小説版のエピローグでは
――不意討ちでキスをしてやった。
というように箇所を名言されず、結婚式のイラストの後ということもあり口にしているように想像できるキスを、あえて頬にしている。
ここは映像化する場合でも、顔は写さずに身体だけのカットとその後のリアクションで見せる等の方が原作の雰囲気を壊さなかったでしょう。

そのせいで単体で見ると最後のキスが兄妹のイタズラと取ることも出来るようになっているんですよね。
(原作で、どんなに溺愛しても恋愛関係にはならないと語られる赤城兄妹も、頬にキスはしてましたから)

もしそう解釈して見てしまうと、期間限定で付き合った後は本当に兄妹関係に戻って終わり、という誰も彼もが幸せになれない悲恋の物語となってしまう


逆に言うと、原作でも表層的な事象で解釈し、期間限定を本当にそのままの意味で受け取れば、そういうビターエンド的な読み方もできるようになっています。

これは兄妹の恋愛という世間ではタブーとされる関係を描く上で、その表現を明示させないように描いた結果として、このような暗喩的なものとなったのではないかと思います。
そして更に原作で抽象的に描いたシーンをアニメ化する際に削った結果、まるで悲恋のようにも受け取れる表現となってしまったのではないでしょうか。


実は原作との相違は意図的変更?

深読みし過ぎかもしれませんが、ここまで重要な表現をカットしていることを考えると、意図的に原作と結末を変更したのかもしれないと思えてしまいます。
つまり第一期の12話での結末分岐のように、アニメはGoodEndであり、原作小説の結末がTrueEndという住み分けを、同じ要素を描きながら部分的カットするモンタージュ手法によって行っている可能性です。

例えば仮に、同じ内容でもエピローグ部分に指輪を贈るシーンを入れ、その後のキスを口にしていた場合はどうでしょうか?
その映像から京介と桐乃が普通の兄妹に戻ったと読み取る人は少数派になるでしょう。

そう考えると媒体の違いによる制約から結末の意味合いを変えるために、原作では読者に委ねていたエピローグのキスの場所を頬として描いていると邪推してもいいかもしれないと思います。


ただ上記したように、黒猫や麻奈実の思いすら無駄にするこの行動は、京介の選択としてありえないと思うのです。
黒猫がディスティーレコードを破らず、麻奈実があんなにも切実に告白しなかったならば、この読み方も可能だとは思うのですが。


もしかしたらアニメでも「帰ったら人生相談」という台詞の意味をしっかり考えれば、あるいは原作と同じ結論に到達できるのかもしれませんが、さすがにあの情報量では難しいと思います。


読解力のない私はアニメ一周目では「最後にキスシーンはあるが別れると言ってるし、結局どっちなんだ?」と腑に落ちなかったんです。
まぁ、そのおかげで原作を読む機会を得られたとも言えるのですけれど。




最後に一言

伏見つかさ先生の意図が「兄妹は、二人だけの秘密を抱えて終わる」とはいえ、このように解釈を加えないと理解できないようにして、読者にまで二人の関係を秘密にして終わることはなかったんじゃないかと思いますw
これでは二人は別れて終了という認識が多くなるのも仕方がない。

それが発売後の反応で分かったから、下のインタビューで蛇足と知りつつも
・「完全なる桐乃エンド」 ・「最初の人生相談と同じように、兄妹は、二人だけの秘密を抱えて終わる」
と「完全なる」という修飾語までつけて補足のコメントをしたのだと思います。






参考

俺の妹がこんなに可愛いわけがない最終巻 伏見つかさ先生へ「ラストについて」「次回作」などインタビュー!
http://blog.livedoor.jp/geek/archives/51398941.html

2014年3月13日木曜日

俺の妹がこんなに可愛いわけがない 双子トリック・探偵小説的に読む俺妹

双子のトリックとは

双子のトリックは、探偵小説の定番の一つとして存在します。
外見が同じ人間ば便利なので多くの使い方が考案されていますが、その中に一人の人物だと周囲の人間が認識していた存在が、実は二人の人間によって入れ替わっているというものがあります。
これにより一人が確保したアリバイを利用してもう一人が反抗を行うことが可能になるという寸法です。




俺妹におけるトリック

俺妹も、極論すればこの双子のトリックによって成り立っている作品です。
つまり、主人公は「自分は高坂京介という一人の人間である」という意識で語ります。
しかし桐乃にとっては「現実の兄である京介と3年前に失われた兄である京介は別の存在」として認識されている。
だからこそ、京介の視点からでは彼女の言動に一部整合性のないように感じる。


俺妹を探偵小説に見立てるならば、

高坂京介は事件の語り部たる探偵の助手であり、

桐乃は人に明かせぬ秘密を隠し持つ犯人

そして麻奈実が全ての謎を解説する探偵なのです。


探偵の解説を読んでから、もう一度読み返すように、俺妹も11巻で明かされることになる「二人の京介」というトリックを認識した上で読み返すと判明する事実が多数隠されています。




トリック活用の事例

例えばその二重性が発揮される場面として、10巻にて桐乃との仲を疑われた京介が一人暮らしを言い渡されるシーン。
別にそこまで自信があるわけじゃないんだが、
「まあな、任せとけって」俺は不敵に応えてみせる。すると桐乃は露骨にいやそうな顔になった「…………桐乃。なんだその顔は」「……別に」(中略)「じゃーね、ばいばい。ずっと帰って来なくてもいいよ」
最後の「ずっと帰って来なくてもいいよ」の意図を読み解くにも、この二重の京介というトリックが鍵として必要になります。
後の京介を何度も激励する行動から見ても、この時点での桐乃は彼がいなくなることを肯定するためにこの台詞を語ったわけでないのは明白でしょう。

発言した時の状態

まず、この台詞の前の会話にて「両親から二人の中が急に接近しており恋愛関係に発展したかもしれないので京介に一人暮らしをさせる」とを告げられます。
後半で母親の口から、本当に疑っていたわけではないとネタばらしされますが、京介と桐乃はこの時点でそれを真実だと思っています。

それを告げられたことでの桐乃の心情を解説しているのが、後の御鏡との会話です。
「妹と結ばれるにあたって、ご両親が反対するであろうことがハッキリしてしまったのも二人にとっては厳しい材料だ」
これは京介に向かって語られていますが、内容としては自分の想いに京介よりも自覚的な桐乃にこそ強く当てはまる内容です。

嫌そうな顔をした理由

彼女は理屈では認められない関係であると理解している。それは過去の麻奈実からの刷り込みで学んでいます。
しかし現実として麻奈実と同じような否定を両親から直接語られ、それを正視するというのはこれが初めての経験です。
これによる精神的な動揺は京介以上に強かったでしょう。

そこに続く京介の「任せとけ」は、桐乃にとって初めての恋の相手である「お兄ちゃん」である京介を連想させる台詞です。
この段階では、「お兄ちゃん」への想いと、現在の京介は統合されつつあるのですが、完全にそれを受け入れられるのは11巻の麻奈実との過去の話が必要になります。
彼女にとってこの状況は、直前に両親によって否定された自身の恋を、目の前で確認するように見せつけられたということになります。

目を背けられない桐乃の問題

こういった物語の語り部である京介には認識できない心理状態が「ずっと帰って来なくてもいいよ」という台詞に繋がる。
桐乃は11巻の巻末での黒猫とあやせとの会話にもあるように、自身の恋をどこかで諦めねばならないと認識している。
その諦める為の契機として、海外へ陸上で留学し、偽の恋人を作り、そしてまた卒業を契機にモデルとして海外へ行こうとしているのです。
どうしてもその想い捨てられないにも関わらず、桐乃は常に諦観を抱え続けています

自分と過去へ向けた言葉

この台詞は単純なツンデレ的言動として現在の一人暮らしをする京介に向けられたものではなく、厳しい現実と直面させられた瞬間に、
自身の報われないだろう感情に向けて言われた言葉
そして、現在の人間としての京介に惹かれる桐乃として、理想の異性としてしか見ていなかった
過去の「お兄ちゃん」としての京介に向かって言われる言葉
ということになります。
つまりこの言葉とは「任せとけ」によって連想された「お兄ちゃん」へ向けられた現在の京介を肯定するための言葉でもあるのです。


彼女が麻奈実をあれだけ強烈に嫌悪するのも、その言葉の反論できない正しさを認識しているからです。
理論では絶対に敵わないからこそ、代替としてそれを語った彼女個人を否定するしかなかった。
彼女は麻奈実という個人ではなく、彼女の語った言葉をこそ受け入れられなかったのです。

そして同じように、目前で見せられた手に入らないと思い込んでいる願望の対象に対して、その存在を否定する言葉しか語ることができなかったのです。

総論

このように一人称という形式を取る以上、明確に語れるのは京介の視点だけであり、桐乃の思考というものは、彼の得た情報から読者が推測するしかない。
しかし、その語り部たる京介は11巻での探偵=麻奈実による解説までその構造を認識することはなかった。
そして12巻で「スーパー京介」として語り部の役割を放棄することで、自身の意図と解釈の全てを読者に説明することなく物語は完結する。


だからこの物語を読み解くためには、探偵小説のお約束である「読者への挑戦状」の時点で思考するように、読者側からの理解によって事件の裏を穴埋めする作業が必要になるのです。

推理の過程を省いて物語を認識してしまうと、最終巻、そしてエピローグの解釈が変わってしまう。
特に京介と桐乃の行動と、そこに現れる両者の認識の違いからその思考を読み取らないと、エピローグでの行動の意味が180度転換してしまう


その結果、同じ小説を読んでいるはずなのに、「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」はバッドエンド、ビターエンド、ハッピーエンド、その認識の違いが混在してしまうということになるのです。








ちなみに「まあな、任せとけって」の台詞はアニメではカットされました。

2014年3月12日水曜日

俺の妹がこんなに可愛いわけがない 兄妹恋愛は現代最後のロミジュリ

シェイクスピアの古典、ロミオとジュリエットは誰もが知る名作です。
共に名家の二人が、両家の争いにより引き裂かれる。
この不条理により引き裂かれる恋愛は定石であり、最も恋愛を盛り上げる演出法の一つと言っていいでしょう。

障害と社会の関連性

では、現代日本でロミオとジュリエットを再現しようとするとどうなるでしょう?
貴族という分化が戦後になくなり、金持ちは存在しても身分の高い人間という概念を持たない日本。
もちろん現実には家絡みでの政略結婚なども存在するとは思いますが、しかし一般人にとっては家のしがらみにより引き裂かれる二人、という状況は想像しづらいのではないでしょうか?

自由恋愛と資本主義はロミオとジュリエットという状況とは相性が悪いのです。
自由恋愛こそが至高であるという現代の恋愛観において、家の反対で恋愛を断念することは、一つの選択でしかない。
親と恋人が相反する場合、それを天秤にかけることは現代では悪とはされません。
(この辺りは儒教国では違うようで、韓流ドラマでは未だに両親の反対に苦悩するカップルの様子がリアリティを持つようです)
資本主義社会では、農民からの徴税により生きる貴族という身分はなく、それは逆説的に貴族としての義務、ノブレス・オブリージュというものも存在しないことを示します。

そこまで愛しあう二人ならば家を出て暮らせばいい。
世界旅行や移住も個人の努力で行える時代、自国で問題があるならば他国に行くという方法すらある。
修学旅行ですら海外に行く時代では、他国とは過去のような異世界ではない。
何故、二人はそんな多くの選択を選べないのか?
その状況説明をするだけで、より多くの不必要な設定を要することになります。


現代に残る最後の障害

では逆に現代においても絶対に認められず、周囲から引き裂かれる運命にある関係性とは何か。
それが近親相姦です。

現代では同性愛は広く認知されるようになってきました。
キリスト教圏の国々ですら、徐々に同性愛での結婚についても真剣に検討される時代です。
同性愛は個人や集団間での問題にはなっても、もはや社会的な禁忌足り得ない。

そんな時代においても近親相姦を許容する国はありません。
世界中のどこに言ったとしても、その関係性を公言して受け入れられることのない関係性。
つまり現代における不条理により妨害される二人の恋愛を描くためには、近親相姦をテーマにするしかないのです。

俺妹の作中にて麻奈実が「焦らないで、よく考えて、自分の気持ちを大切にしてあげなさい」と語る理由は、京介を心配し、尊重して言っているのは確かです。
しかし同時に、幸福というものを冷静に考え、理論的な足し算引き算で捉えれば、桐乃を選ぶ必然性がない。
これが過去、桐乃の想いを倫理という正しさにおいて完全に否定した彼女が、一見まるで桐乃をも含めた全ての選択肢を肯定するような台詞を語れた理由ではないかと思います。
ようするに冷静に考えれば選択肢のある中で妹を選択することはデメリットしかない
京介の幸せを第一義に捉えているために、結局は卒業まで自身の好意を感情として伝えられなかった彼女らしい問いかけ方だと思います。

そんな論理的な不合理を覆すのは御鏡と黒猫が暴いた二人の「剥き出しの感情論」であり、それが夏コミに皆で制作した同人誌のように、「赤字を黒字に変えるほどの何か」であると思います。


総論

物語の基本として、敵が強大であるほど、障害が大きいほど、それを克服するカタルシスは大きくなる。
だからこそ、世界という最大規模の存在から反対されるからこそ、近親相姦というテーマは恋愛を盛り上げる設定としての最適解と成りうるのです
もしこれが革新されるとしたら、SFのように宇宙に移民する、異星人と遭遇する、逆に文明が一旦崩壊するといった、人類全体の存在を問いなおす強制的な価値観のパラダイムシフトが必要ではないでしょうか。

人類が地球というマクロな視点を持つに至っても祝福されない関係は、正に現代に残された最後のロミオとジュリエットと言えるでしょう。

2014年3月11日火曜日

俺の妹がこんなに可愛いわけがない 妹を扱う作品として大切なこと


妹(実)をというキャラクターを描く上で本来抜いてはいけない大切な描写について。

二次元の美少女キャラクターの「属性」として、妹というものは確固たる地位を築いています。
しかし単純に妹とそのキャラクターに設定したとしても、それは単純な文字情報でしかありません。
実際の作品でも、同居している年下の異性という以外に差別化ができていないという場合も多々あります。

そんな中で、俺妹には妹が妹であるが故の表現がしっかりと描かれています。
私としては、コレに注目できるかどうかが、作者が妹という存在について思考した熟考の上でキャラクターを描いているか否かの分水嶺になると思います。

それは6巻での赤城との秋葉原での会話で、生まれた日の回想。
桐乃が生まれた日のことは――忘れやしない。(中略)あの日の光景はみんな、まるで昨日のことのように、目をつむればそこに映る。あいつと初めて会った、その瞬間のことも。桐乃は保育器に入れられていて、猿みたいな顔で、眠っていたっけ。
そして12巻でのあやせとの会話
「自分でも意外だよ。覚えてるもんだな、桐乃が赤ちゃんだった頃なんて――はるか昔だってのにさ」(中略)「俺も三歳とか四歳くらいの頃だから、たいしたことはできなかったはずなんだが、妹のおむつ替えたり、ミルク飲ませてやったり、してやった覚えがあるよ。きっとお袋に頼んで、やらせてもらったんだろうな」
つまり主人公が彼女を生まれた時から知っているということです。
これがあることが幼馴染や義妹というものと違った、実の妹という存在が独自にもつ要素の筆頭と言えるでしょう。
子供の頃から知っているというだけならば幼馴染が有しており、家族として同居しているだけならば義妹にも存在しています。
かなり特殊な状況を除けば、出生時を知っている異性というのは妹しかいないわけです。

俺妹のように過去を回想するという方法論以外にも方法は色々とあると思います。
しかし、このことを表現できるか否かが、作品において正面から妹を描けたかに繋がると考えます。


原作の伏見つかさ先生は、実際には妹のいないということですが、それでここまで表現を追求できたということに感動します。
ただし人にもよるのでしょうが実際に妹がいる人間は、小さいころの妹について忘れているという場合も多々あるので、これは想像だからこそ描ける、理想としてオリジナルを超えることのできるという、表現の可能性なのかもしれません。








ちなみにアニメ版では上記の表現は全てカットされました

2014年3月10日月曜日

俺の妹がこんなに可愛いわけがない 桐乃はなぜ妹が好きなのか

今回は桐乃が妹を愛する理由ついての考察です。

前提として明確な表現

第一巻で
「わ、分かんない!」(中略)「……あのね……あのね……じ、自分でも……分かんないの」
と語るように、桐乃が妹作品を好きになった理由について当初は明言されません。
この理由というのが、推理小説のハウダニットのように物語の原因を巡る謎となっており、桐乃がその「動機」を自覚することが一つの結末への鍵となっています。

原作でも物語を読み進めれば分かる構成になっていますが、
伏見つかさ先生が脚本を担当したアニメ第二期の13話が非常に分かりやすいですね。
この回は、原作11巻を大幅にカットしつつ、なるべくニュアンスを削らないように構成されています。
11巻は推理小説に例えるなら、探偵が事件の概要を語るシーンに相当する非常に重要な巻ですので、やはりオリジナルに比べると勿体無いぐらいに情報が落とされている訳ですが、結末へ至る為の最低限必要な項目だけは明記してあるという点で構造は理解しやすいでしょう。

13話の中で、麻奈実が兄妹恋愛を否定する言葉のカットから、彼女がエロゲーを発見してそれにハマる過程が描かれています。
つまり、妹ゲームにハマった原因は、京介への報われない思慕の代償行為であると表現されている訳です。
兄と妹が恋愛することが肯定される物語を通じて、否定された自己を再度肯定しようとしているという解釈です。
(アニメと原作を混ぜて解釈するのは、あまり好ましい行為ではないのですが、私がアニメから入ったせいで内容自体が混合されているのでご容赦下さい)


深層意識下の代償行為

ここまでは、作中で明確に描かれた要素ですが、それ以外にもう一つの要素が考えられる、というのが今回の趣旨です。

それは11巻で
「(前略)『背伸びしていた兄貴』のことを、カッコいいって思ってた。頭がよくて、足が速くて、誰よりもがんばってて、自分のことを特別な人間だと思っている――そんな人にあたしもなるんだって、憧れててた」
(中略)
「ーーでも、そんな人はいなかったんだよね」
このそんな人はいなかったと語られる「過去のお兄ちゃん」への憧れです。
そして、この理想化された存在しない「お兄ちゃん」には、上の言葉には語られないもう一つのが付加されているます。
それは「妹である自分を異性としても愛してくれる」というものです。
桐乃からの一方的な思慕を、理想の兄は受け入れてくれる、積極的肯定してくれると思うようになっていくわけです。
これは「自分がそうであるならば、彼もまたそうであって欲しい」という欲求が「そうであるはずだ」と変形した都合の良い理想です。
しかし普通ならば現実と衝突し、挫折を経験するであろうその理論を、現実の京介が無気力化して舞台から降りたことで、理想の「お兄ちゃん」を追い求めた彼女は一人で再現することになります。

桐乃は、小学校の頃に一番番足が速かったことを目標に、陸上で海外遠征までしてしまう。
学校のしおりの表紙に写真を載せたことを目標に、プロのモデルになってしまう。
彼女の理想の「お兄ちゃん」は当時の京介を超えて成長していきます。
そして「お兄ちゃん」が成長したならば出したであろう結果を、己をもって再現するのです。

彼女の中だけの理想であり、現実の京介が持ち得なかったどのような要素も獲得できる存在。
それは多くの少女が幼少期に抱く、究極の理想化された異性、白馬の王子様願望に近いものですね。
そして「そんな人にあたしもなるんだ」という理想へ同一化しようとする桐乃には「お兄ちゃん」と同じように妹への愛情が生まれた訳です。
(完全な余談ですが、この思考ロジックは少女革命ウテナの天上ウテナを彷彿とさせます)

現在の京介が3年前以降麻奈実の影響下にあるように、現在の桐乃は過去から抱き続けた理想の「お兄ちゃん」の影響下にある訳です。

作中の人生相談を通して、桐乃は徐々に現在の京介を肯定できるようになっていきます。
その中でも、理想の「お兄ちゃん」を再現する自分の行為と、現在の兄貴である京介の存在が初めて本格的に衝突するのは、海外で挫折を経験し、彼女を止めるために海外まで追いかける場面だと思います。
同一人物でありながら、違う2人の兄を見ていた桐乃にとって、「頑張らなくていい」と過去の「お兄ちゃん」を否定する言葉で自分を連れ帰ろうとする京介を見ることで、ようやくその分割された2つの兄像が同一人物であると認識せざるを得なくなる。
そして、完全に合一するのは11巻の三人の会話のシーンで過去の事情を知り「そんな人はいなかった」と自身の言葉にして認めるまでかかるわけです。

そうした彼女の理想とは違い、京介が秋美に対して
「(前略)三年前から妹のことが好きだったの?」
「いや、三年前に好きだったやつといま好きなやつは違うよ?」
と語ったように、桐乃の理想であった当時は妹への愛はあくまで家族愛でしかなった。
しかし、京介は段階的な変化ではなく、秋美の事故をきっかけに別人のようになることで、幼かった桐乃の中では「お兄ちゃん」とは別の人間として分割されてしまった。
だから、ひとり歩きした理想を追いかける彼女には、その齟齬を埋める機会がなかったのです。

現実に「お兄ちゃん」が存在しなくなった桐乃は、理想の中の「お兄ちゃん」が自分にそうしてくれるはずだったように、彼の代わりに妹を愛する。
彼女の意識はエロゲーの中の妹と自分を重ねあわせながら、同時に兄にもまた感情移入しており、その双方が同時に桐乃自身なのです。

理想の兄となってゲームをプレイして、理想の妹である自分を愛する。
ゲームのヒロインに「お兄ちゃん大好き」と言われて悶絶する。
それはipodに吹き込まれた未来の自分へ向けたメッセージと本質的には同じものです。
才能ではなく努力によって「お兄ちゃん」としての自分を作り上げた彼女にとって、それを褒めて肯定してくれる存在はエロゲーの中の「妹」としての自分だけなのです。


総論

彼女にとってエロゲーをプレイするということは、自身で自身の尾を飲み込むウロボロスの蛇のように、架空の「お兄ちゃん」になって自分を愛する自己愛の円環構造となっている。

そんな幼少期から報われぬと分かってしまった自分の願望を、複雑な代償行為に仮託せざるを得なくなってしまったのが桐乃という人物なのです。



つまり桐乃って超かわいいですね。

2014年3月9日日曜日

俺の妹がこんなに可愛いわけがない この作品を一番楽しめる人とは誰か

この作品を読んで、一番楽しめる人物像を想像してみました。
そして、残念なことに、その定義には私は当て嵌まりません。
では、どんな人間が最もこの作品を楽しむのに適しているのでしょうか?


楽しめる人の物像

まず作品を楽しめるというものの定義なのですが、
私見としての楽しむとは感動することです。
それはつまり
「作品を読んだことで自分の価値観を問いなおすような衝撃があること」
ということになります。
名作というものは、得てして人間の生き方そのものにすら影響を与えるものですから。


そして、その定義で考えると、この作品が最も向いている人物像とは
「オタクであり、そのことに負い目を感じつつも、倫理観は非常にまっとうな人物」
となります。

この人物像で誰かを思い出しませんでしょうか?
そう、この作品のヒロインである高坂桐乃です。
桐乃こそが作品とは関係ない読者としてこの作品を読んだ時に最も楽しめる人物なのです。


楽しむための方法論

では、その理由は何故か?
答えは一巻と十二巻の結論の相似形にあります。

一巻では
「本当に好きなら他人なんか気にせずにオタクであることを認めよう」
という京介からのメッセージが語られます。
オタクであり、そこに負い目を持つ人間は、この強烈な自己肯定により非常に大きな感銘を受けることができる筈です。

では、十二巻はどうでしょう?
ここで語られるメッセージとは
「本当に好きなら他人なんか気にせずに妹を愛しちゃったことを認めよう」
という京介の決断が語られます。

これは近親相姦であり、まっとうな倫理観を持つ人間は拒否反応を抱くことになります。
ところが、この否定するべき論法は一巻のオタク肯定と同じ構造になっているわけですね。


つまり、自分を肯定してくれた論法により自分の倫理を否定されるという自己矛盾を突きつけられることになるのです。
好きならいいじゃない!として肯定された方法で、なら好きならコレも良いでしょ?という価値観を同時に突きつけられる。
後者を否定することは、自身を認めた前者の論法への否定にも繋がります。
どんなに好きでも社会が認めない近親相姦、と否定することは、
同時に、どんなに好きでも社会が認めないオタク趣味を否定することにもなるのです。
これを肯定したのはどちらも「他人に迷惑をかけない好きという気持ちは認めよう」という方法論だからです。


作中の京介と桐乃の関係も、他人に秘密にするのならば誰にも迷惑かけていませんよね?
親にバレたら不味い?それはオタク趣味でも同じことだと一巻で明らかになりました。だから最後まで二人の秘密として背負うという結論を出したのです。
生涯結婚できない?別に今どき生涯独身の男女なんて腐るほどいます。子供を作らない、作れない夫婦というものも認められています。
つまり、二人がその関係性を公にしないで付き合っていく場合、
そしてオタクを肯定するように「好きなら他人がどう思っても良い」と認める場合、
それを否定する論拠は何もないわけです。

この価値観への揺さぶりこそが、この物語全体の真骨頂だと思います。


高坂桐乃の場合

高坂桐乃は作中で京介によって何度も語られるように、そしてその行動が示す通りに、決して近親相姦が他人に認められる行為であるとは認識していません。

それは京介が桐乃へ告白する時に
「(前略)兄妹で恋愛なんてエロゲの話でしょ……現実でやったら、そんなの気持ち悪いだけじゃん……!」
という言葉でも語られています。

仮に京介に対して恋愛感情を持たなかった桐乃であるならば、そして近親相姦が自身に関係のない問題であるならば拒否感を感じたはずです。

しかし、自身のコンプレックスとなっているオタク趣味を許容してくれた作品に同じ方法によって肯定された場合はどうでしょう?
自身の価値観が揺らぐのではないでしょうか。
そして双方を矛盾なく納得する為にも、自明のものとして考えなかった、倫理の正しさとは何かについて思考せざるを得なくなる。
こうして、思考し、考えるという行為の必要性を生むことになります。

総論

私のように「近親相姦でも双方合意ならば別に良いじゃん」という結論を、作品を読む前から先に持っている人間には持つことのできない思考の機会。
それを倫理について疑問を持たなかった人間は作品から得ることができる。

そして問いから逃げずに、自分でしっかりと考えた上で自分の為の回答を導き出せる人間こそ、本当は一番「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」を楽しめる人間なのではないでしょうか?

その結果が近親相姦への肯定と否定どちらであっても、その結論を自身の中で昇華し自覚的な倫理観が形成されるのであれば、やはりこの作品がその人にとっての人生の一部となっている筈です。

2014年3月8日土曜日

俺の妹がこんなに可愛いわけがない 賛否両論の理由 -補足- 近親相姦の内包する問題

俺の妹がこんなに可愛いわけがない、最終巻における結末が賛否両論ある理由は、個人的感情による根拠なき作品へのバッシングを除外すると、やはり兄妹での恋愛、つまり近親相姦の是非にかなりの部分が集約されるのではないでしょうか。


何故、近親相姦が倫理という言葉によって否定されるのか。
この点について友人と話していて気がついた、完全に見落としていた問題点がありました。

前回の記事において、出産を前提としない夫婦を許容する社会において、近親相姦を否定できる根拠が無いと書きましたが、「近親者による性的虐待との線引の難しさ」を失念していました。


近親相姦を否定する論拠

欧米ではかなり根深い問題として、父親から娘への性的虐待、もしくはもちろん母親から息子への性的虐待が存在します。

近親相姦の肯定が、ここに「恋愛関係としての性交渉であった」という逃げ道を与える恐れがあるという可能性です。
しかし、この場合はそもそもが未成年者に対する強制的な性交渉の方を問題にするべきでしょう。

では、マインドコントロールのように、性的虐待を当然のものと肯定するような人格を形成するように育てられたらどうでしょう?
子供にとって世界を形造るのは両親と家族であり、そこから歪んだ認識を与えられた場合、それは成人したとしても正しい判断ができているとは言えないでしょう。

彼、もしくは彼女が、一般的な成人としての判断を備えた上で、近親者を恋愛対象と選んだという根拠が、外部の人間に対して明確に証明できないのです。



これに対する回答として「人間の人格形成に密接に関わる異性は、恋愛対象として除外することで安全性を保つ」という考え方ができます。
この理論では、確かに現代においても近親相姦否定の論拠は成り立つと思いました。

自由と安全の天秤において、子供への虐待を見過ごしてしまう可能性よりは、その自由は制限されるべきであると私も考えます。


高坂兄妹の場合について

高坂兄妹においては完全に自我が形成されて後に生まれた関係性ですので、上記の問題には当てはまりません。
ただし危険なものは一括りにして排除するという方法論を用いるならば、彼らの関係性も否定されてしまうでしょう。

なぜなら、彼らの関係性を一切知らない外部に対して「幼少期から兄が妹を、もしくは妹が兄をそう思うように教育・洗脳したのではないか」という可能性を否定する根拠を提示できないからです。

一見すると自由意志否定のようですが、かって巨大宗教団体がマインドコントロールによって、外部から人格を歪めることに成功していた例を出すまでもなく、人間の精神は相応の手間をかければ操作可能であるということは証明されています。
まして、幼少期であるならば、それは素人でも実行可能な程に容易でしょう。

それが本人単独の意志であるか否かが判別できないという状況は、物理的な証明の難しい心の問題だけに明確な答えのないものとなります。

つまり京介と桐乃においても、自分たちが正確な判断を下せる人間として相手を選んでいると、全く見ず知らずの他人に証明することが難しいということは変わりません。


総論

私としては、裁判のように、個別の案件に関してそれぞれの状況を鑑みて取り扱う必要性があると思っています。

そして「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」という物語を全て読むことで、京介と桐乃の関係性を知っている人間は、黒猫や沙織たちが彼らを受け入れたように、そういった社会的な安全弁の存在を認識した上でも、兄妹であるという理由を用いて彼らを拒否することはないと信じたいと思います。

確かに、全く予備知識のない他人の関係としての近親相姦であるならば、上記した理由により警戒することは正しい反応です。

しかし、物語という形をとり、二人の関係性を正確に認識できる特権的立場にある「読者」において、それは適応されません。

そうであるならば、読者というものは近親相姦という表層的な事象だけに囚われずに、二人の自立した人間の判断の結果として、その関係性を認識するべきだと考えます。

2014年3月6日木曜日

俺の妹がこんなに可愛いわけがない 最終12巻の賛否両論の理由

個人的には最高の結末だった最終巻ですが、色々なレビューを読むと否定的な感想を持つ方もいるようで、その理由について考えてみました。

読者の認識の違い

意見の断絶が起こる大きな理由は、1巻を読んだ時点でこの作品に求めたものの違いでしょう。
本編を読めば分かりますが伏見つかさ先生はエロゲーに造詣がある方なので、実妹モノという「近親相姦、インセスト・タブーをテーマにしたラブコメ」というジャンルを踏まえた上で創作された作品だと思います。
ツンデレの妹とのラブコメと定義しても先達と言える作品は多くあるでしょう。

だからそれを踏まえた読者からすれば、メインヒロインという主人公の相手役は、タイトルを見るだけで妹である桐乃しかありえない
兄妹という家族に対して抱いた、禁断の恋愛劇の行方というものが、物語を読み進める原動力の基板として存在します。


ところがそういった素養のない方からすれば、1巻の段階では「兄貴が妹の為に頑張るファミリードラマ」という受け取り方をすることもできるのです。

表層的に起こる事象は妹の悩みを聞いてそれを解決するために奔走する物語であり、後半を読めば理解できる物語開始以前から抱えていた桐乃の恋心について明確は描写はないからです。
あくまでも家族愛の物語として読むことも可能となっている。

最終巻から振り返れば、この物語とは1巻の段階から「他人から否定されるものとしても、自身の好きという感情を肯定する」という主題の物語ですので、当初から近親相姦に踏み込むことは既定されていたと分かるわけですが、そこまで読み取れというのは酷でしょう。

だから、自身の倫理感とは違う結末に、生理的な忌避感を覚えてしまう。
それまで共感してきた主人公の選択を自身の中で昇華できずに、澱として残る。
つまり己の持っている今まで信じてきた倫理観について問いかけられることになります。

第一巻で「社会から白眼視されるオタクであることを肯定する」ことに癒やしを感じ、京介や桐乃に共感し続けた人間が、「社会から白眼視される近親相姦を肯定する」ことは否定したいと感じる。
この対比構造が自己矛盾を生むわけです。


倫理の持つ矛盾

創作物は読者に対して疑問符を残すことで思考させることは、本来的には評価される点なのですが、エンターテイメントとして広く流通することで、それに比例して考えることを面倒な行為として嫌う人間も増えてきます。
だからこそ、その矛盾を思考放棄し、作品全体を否定することで問題に蓋をしようとする

何故ならば、近親相姦自体が、何故悪いのかを明確に定義できない問題だからです。
他人を物理的に害する行為ではなく、ただ生理的な嫌悪感から発生する拒否、それは人種差別と何が違うのか?
あくまでも周囲の社会や人間が拒絶するから問題が発生する行動であり、ただひたすらに不条理この上ない断定として「悪い」と社会から規定されているもの。

近親婚否定への例として挙げられる「子供を持った場合の遺伝子的な欠損の可能性」ということは、逆に言えば現代社会のように子供を持つことが夫婦の絶対的義務とされない社会においては適応されません。
過去の日本のように不妊症の女性が石女(うまずめ)などと迫害されることの方が問題でしょう。
経済的な問題、肉体的な問題により、子供を持たない夫婦というものは許容されるだけの豊かさがあります。
子供への遺伝的な問題というものは、現代ではそれだけで拒否されるものではなくなっている。
京介と桐乃が、子供を作らない夫婦になることに、これは否定する要素になりえない。

それでも、なぜ近親相姦は「悪い」のか?

この倫理が内包する致命的な矛盾への問いかけこそが、この作品を特異な立ち位置に置かせ、同時に賛否両論をもたらす根幹になっていると思います。


創作者の決意

こういった乖離は読者からのファンレター等で、作者と編集共に理解していた筈です。
メディアミックスも多くされた作品だけに、批判を恐れて途中で方向転換し近親相姦には触れずに、適当なヒロインとの恋愛劇として終幕を迎えるという、逃げの選択肢も常に存在したわけです。

私もこれだけ流行ってしまったが故に、逃げの選択をするのではないかと思い、完結するまで読むことができませんでした。
だってその方が楽でしょう?
賛否両論よりも、適当なヒロインとのラブコメに方向修正するチャンスはいくらでもありました。

だからこそ、賛否両論を覚悟して最後まで描き切ったという姿勢に感動を覚えます。

12巻での麻奈実との決戦において、
そもそも、最終決戦だなんてご大層な前フリをしたが、麻奈実はラスボスなんかじゃない。この物語のラスボス、おれが立ち向かうべき敵は、一番最初から変わっちゃいないんだから。俺はそいつ、あるいはそいつらに行ってやった。「知るか!」ってな。
この中の京介が立ち向かう「そいつ」、「この物語のラスボス」とは、作中の社会や倫理と同時に、最終巻を読んで二人の恋を否定する読者のことも表しています

この台詞の時点で、基本的に読者が感情移入するべき主人公である京介が、自身と相容れない意見を切り捨てているんです。

こうして批判も否定も納得した上で、それでも物語の主題を描ききるという決意は
「俺はそれを破る!もっと大切なものがあるからなあ!」
 という言葉に仮託されて、語られていると思います。

「読者の共感よりも桐乃がもっと大切なものだ」と読み方は多分にメタフィクション的な視点でありますが、間違っていない解き方だと思います。
というのは、これまでの一人称における京介の主観というものは、外部に呼びかけるように読者の視線を意識したものとして描かれていますから。
この決断によって、物語の中の読者の主観という役割を放棄して、自身の思いの為に行動しているんですね。
だからこそ彼の決断に同意できず、拒否されることとなった読者が反発を覚えるのも、予定された当然の反応なのです。


総論

12冊という分量を持って、作中で2年、桐乃にとっては自分の半生をかけて育まれた思いは、それでも理由なき倫理によって否定できるものなのか?

私は、二人を心から祝福したいと感じましたが、そうではない人もいる。
でも、それは絶対に起こりうる必然なのでしょう。
理屈では分かり合えない根源を抱えるのが人間だからです。

その相容れない二極化する感想と、そこに生まれる各々の思考こそが、この作品を萌え属性を組み合わせた、甘いだけの恋愛劇に収めないものとさせているのです。


俺の妹がこんなに可愛いわけがない、という作品の持つ「否定する人間がいると分かっていても好きを否定しない」というメッセージは、京介たち物語の内側の問題であると同時に、物語の創作論という外側にも共通するテーマだったのではないでしょうか。

俺の妹がこんなに可愛いわけがない 京介の三年前に好きだった人

今回は、京介の過去の恋愛について考えてみようと思います。

問題になるのは幼馴染として、桐乃と対立構造にあった存在の麻奈実。
この物語においては、妹である桐乃とそれ以外の異性との対立構造という意味で、黒猫やあやせの存在を含めて麻奈実が代表しているんですね。
第一巻以前から存在していた三角関係が広がっていき、多くのヒロインが登場しつつも、最終的にはまたこの三人の対立構造として締めるという構造です。

重要なのは11巻での秋美の告白に対する答え
「三年前でも、いまでも、答えは同じだ」
泣きながら伝えた。
「ごめん、俺、好きな奴がいるんだ」
俺は今度こそ、自分から告白すると決めたんだ。
その後の12巻でのネタばらしとして
「あたしてっきり『あの人』のことだと思ってたよ!『三年前もいまも答えは同じ』なんてゆーからよぉ~~!三年前から妹のことが好きだったの?」「いや、三年前に好きだったやつといま好きなやつは違うよ?」
「あの人」は秋美との人間関係から言って麻奈実を指しているのですが「三年前に好きだったやつ」は麻奈実なのかどうか?

まず、こういう演出になった一つの要因は、12巻へ向けて読者の興味を煽る為に京介が麻奈実の事が好きなのかとミスリードさせる為ですね。
桐乃への告白シーンでも「俺、好きな人がいるんだ」の後に、あえて言う必要のない「……ごめんな」を付けることで彼女以外の誰かを選ぶのかとミスリードさせるなど、後半はとにかく読者の予想を混乱させるための演出を多様してきます。
この「ごめんな」はアニメ版14話でカットされていますが、さすがに時系列で考えると、兄妹へ告白しようとしていることへの謝罪と考えても、この流れで言うのは京介の意図が不明瞭ですね。

本編での京介は赤城との会話で「麻奈実に言い寄る男は許さない」という発言や、3巻での
すっと身を乗り出して、顔を寄せてくる麻奈実。悪戯っぽい笑顔で、そっと耳打ちしてくる。
「……やっぱり一緒に入る?」
「……!?」
恥ずかしがらせるための策略――冗談だと分かっちゃいる!
だが俺は、不覚にもかなり同様してしまった。
というように、全く異性と思っていない訳ではない。

しかし、3年前に麻奈実が好きだったと仮定した場合、二人の中が一切進展しなかったのは何故なのでしょう?
作中でも頻繁に麻奈実からのアタックはあり、京介が少しでも乗り気になれば一気に進展した可能性が高かったにも関わらず。

この回答を導くために必要となるのは、麻奈実との対決の後の一文
きっとこれが俺たちの、始まりすらしなかった、初恋の終わりだった。
の解釈ですね。
ここで主語が「俺たち」である点が重要です。
この一文の直前に麻奈実から告白されているので、当然麻奈実から京介に恋しているのは確定している。
しかし彼の行動から、京介が麻奈実に恋をしているというには不自然な状況なので、彼には恋人を選ぶという状況を意識しなければならなくなるまで自覚がなかったとするしかないでしょう。
「三年前でも、いまでも、答えは同じだ」 
という当初の一文から、3年前に秋美から告白された場合に、麻奈実との関係を天秤にかけて、好きな女性を選ぶとしたら麻奈実を選んでいた
ということなのではないでしょうか。

つまり、過去において秋美が事故に合わずに告白を成功させていた場合、それにより京介は誰かを選ぶ決断をせざるを得なくなる。
彼を「死んだ魚の眼」とまで表現される程に無気力化させ、結果として麻奈実が望むような京介にさることになる一件がなければ、実は「まなみん大勝利」だった可能性が高かったのではないでしょうか。

あの事件自体は誰が望んで行ったものではない悲劇なのですが、京介を自身が望む状態に変化させ、結果として最初の桐乃の京介への恋心を破綻さることになった事件によって、彼女もまた同時に失敗していたというのも皮肉な話です。



追記

もう一つの理由として、京介は麻奈実をよく「おばあちゃん」に例えます。
彼にとって異性の肉親という表現方法です。
そして8巻では彼女のことを
あるときは母親のようで、またあるときは祖母のようで。妹のようで姉のようで、本当の家族のような――幼馴染。
と表現しています。
京介が麻奈実を好意的に見ていても、最後まで異性として選べなかった最大の理由は、物語の開始時に妹よりも肉親としての親愛を感じる存在だったからではないでしょうか。

高坂家の中で、京介達の父親は人物像を掘り下げて描かれるのに対して、母親の影は薄く描かれています。
決して京介の母親が彼を愛していない訳ではないのですが、京介の視点においては桐乃に比較して両親の愛情が不足していると感じている。
実際に10巻にて受験の為の一人暮らしを言い渡された京介自身が
考えてみりゃさ、俺、親からこんなに干渉を受けたのって、生まれて初めてじゃね?親父もお袋も、昔からずーっと桐乃桐乃桐乃桐乃で、優秀でも華やかでもない息子の受験なんざどうでもいいもんだとばかり思っていたんだけど。
というように語っています。
両親の愛情という点では、桐乃に対して軽い嫉妬を覚えている節がある。

その愛情の欠落を埋めるための、京介にとっての精神的な母親の位置を麻奈実は占めていたのではないでしょうか。
母親よりも母親のように感じていた存在だからこそ、彼女を異性としてみることが最後までできなかった。
「たとえば……他の男が田村さんに言い寄っても、おまえは構わないっての?」「は? そりゃ構うよ。ダメに決まってんだろ。誰だその物好きは。ぶっ飛ばすぞ」
という2巻での赤城とのやりとりも、好きな女の子への素直になれない反応という普通の見方という以外にも、母親の再婚相手に対する息子のような、親しい肉親に近づく人間への忌避反応という取り方もできます。

なによりも麻奈実が京介が三人目の親と呼べる存在であったという表現は、12巻で語られています。
麻奈実が言っているのは『俺と桐乃が付き合っている』件についてだろう。(中略)けれど麻奈実には、何一つ告げていなかった。(中略)それでも俺は、この話を内緒にしていた。親父やお袋と、同じ理由でだ。
8巻の後半で京介は麻奈実から「分かるよ。わたしも、きょうちゃんのことが好きだから」と好意を打ち明けられている。
しかし最後まで彼女に桐乃との関係を言えなかったのは、自分へ恋をしている異性への配慮ではなく、あくまでも両親への配慮と同じ理由なんですね。

そして二人の関係において麻奈実もまた同様の精神構造を持っています。
京介が他の女性、黒猫やあやせと付き合った時に、悔しさを覚えつつ彼が幸せなら祝福しようとする。
この自身を殺しても相手の幸せを願うという見返りを求めない心の動きは、母親の息子に対する感情に近いんですね。
京介と比較すれば、彼女にとっては彼は愛する異性という側面が強いのですが、同時に愛する息子のような存在だったのです。

彼女が否定してきた近親相姦、インセスト・タブーという概念。
しかし家族という概念は肉体的なものだけではなく、精神的にも存在する。
京介と長い年月を過ごすことで築いた擬似的な母子関係によって、彼女の恋は報われなかったのではないでしょうか。

2014年3月4日火曜日

俺の妹がこんなに可愛いわけがない 来栖彼方と真田信也

来栖彼方ルート

来栖加奈子(CV.堀江由衣)の姉のプロ漫画家、来栖彼方(CV.釘宮理恵)には当初はPSP版にて京介とのルートが予定されていたらしく、完成しなかったことが非常に非常に惜しまれる。
桐乃が義妹でしたなんてガッカリオチの話を作るよりも、こういうサブキャラを掘り下げのほうが余程欲しかったというのが個人的な感想だ。
同じifでも、やるなら極悪桐乃編の方だろ、常識的に考えて。

そんな私怨はともかく、そのありえたかもしれない話についての想像である。
この作品の登場キャラの中で名前が紹介され、更にはイケメンで元中二病という設定までついている割に、全く語られなかったサークル小さな楽園の真田信也の話に繋がる話になったのではないだろうか。
  • 彼方は京介との初対面の時に必ず「顔が非常に好みである」と評している。
  • 彼女は黒猫愛読のmascheraの作者である。
  • 沙織の過去話においてmascheraの主人公は真田信也をモデルにしている。
  • 彼方と真田信也は中学時代に先輩後輩の間柄であり先輩と呼んでいる。(槙島香織も当時を知っている)
  • 彼方は信也をからかいなのか本気なのか分からないが「超カッコよかった」と評している。
  • 高坂京介はmascheraの主人公のコスプレが似合う

以上の断片情報を並べると、真田信也は京介と似ており、上位互換イケメンであった筈である。
そして京介に第一印象でかなり高い好感度を示した彼方は、過去に真田信也に好意を持っていた可能性が高い

これをさらに補足する情報として、mascheraの主人公の名前は来栖真夜(くるすしんや)である。
自身の苗字と相手の名前を組み合わせる、これはモデルにしたという以上の意味合いを読み取れるだろう。

香織の帰国で集まるように真田信也とは未だに良好な関係であるようだ。
しかしPSP等に描かれる彼方には現在男性の影がない、となるとこの二人の関係はどういうものだったのだろうか?

恐らく、想定されていたシナリオでは、京介と彼方が接近する中で、真田信也という人物についても描かれる物語になったと思われる。



真田信也がサークルを抜けた理由

小さな楽園で主催者の槇島香織以外で名前が判明しているメンバーは三人

  • 来栖彼方
  • 真田信也
  • 星野きらら

しかし、カメレオンドーターにて沙織が上げたメンバーが辞めていった理由は4つ

  • 彼氏ができた
  • 友達が来なくなった
  • 医師を志した
  • プロデビューが決まった

この内、プロデビューが決まったのは来栖彼方で確定。
彼氏ができたは(恐らく)真田信也ではないとすると彼が抜けた理由は

  • 友達が来なくなった
  • 医師を志した

の二つに絞られる。


槇島香織の夫は誰か

PSP版の沙織ルートにて、槇島香織は自分の夫は幼馴染であり、自分の体を治すために医師になったと語っている
同時に、自分の体を治したのはその幼馴染ではないとも。

サークルの崩壊が始まったのは香織が結婚した後で彼女は外国に行っているが、彼女の夫については一切触れられていない。
しかし結婚した相手がまだ学生であり、その後に医師を志したという可能性も否定はできない。

まだ名前の上がっていない人物か、真田信也がそうなのかは不明だが、裏側で人間関係が繋がっていることの多いこの作品内においては、香織の夫というのはこの2人の内の「医師を志した」人物の方である可能性が高いと考えられるのではないだろうか。


総論

以上を、現状から登場人物を増やさずに纏めようとすると、真田信也は医師であり槇島香織の夫、そして来栖彼方の片思いの相手、ということになる。
これが一番既存キャラのみで人間関係の穴を埋めることができる。
もちろん、友達が来なくなったので疎遠になったのが真田信也という可能性もあり、何より語られなかった4人目が男か女かも判明していない。
そもそも夫はサークルとは関係ない全く別人という可能性は悪魔の証明である。

ほぼ確定しているのは前記したように、来栖彼方が真田信也にかなり執心であり、京介はその真田信也に似ているということだけである。。

ファンとしては、ぜひとも来栖彼方について掘り下げた書き下ろし作品を期待したいところである。






追記

後から確認したのだが、アニメの二期三話にて、海外に行くと香織が語るシーンで驚く真田信也がいるので、上記した仮設である香織の夫と同一人物説は否定される
原作者が書いている部分ではないが、脚本を書くなどかなり監修が入っていることを考えれば、アニメ版での情報も公式として扱うべきだろう。