2014年3月6日木曜日

俺の妹がこんなに可愛いわけがない 最終12巻の賛否両論の理由

個人的には最高の結末だった最終巻ですが、色々なレビューを読むと否定的な感想を持つ方もいるようで、その理由について考えてみました。

読者の認識の違い

意見の断絶が起こる大きな理由は、1巻を読んだ時点でこの作品に求めたものの違いでしょう。
本編を読めば分かりますが伏見つかさ先生はエロゲーに造詣がある方なので、実妹モノという「近親相姦、インセスト・タブーをテーマにしたラブコメ」というジャンルを踏まえた上で創作された作品だと思います。
ツンデレの妹とのラブコメと定義しても先達と言える作品は多くあるでしょう。

だからそれを踏まえた読者からすれば、メインヒロインという主人公の相手役は、タイトルを見るだけで妹である桐乃しかありえない
兄妹という家族に対して抱いた、禁断の恋愛劇の行方というものが、物語を読み進める原動力の基板として存在します。


ところがそういった素養のない方からすれば、1巻の段階では「兄貴が妹の為に頑張るファミリードラマ」という受け取り方をすることもできるのです。

表層的に起こる事象は妹の悩みを聞いてそれを解決するために奔走する物語であり、後半を読めば理解できる物語開始以前から抱えていた桐乃の恋心について明確は描写はないからです。
あくまでも家族愛の物語として読むことも可能となっている。

最終巻から振り返れば、この物語とは1巻の段階から「他人から否定されるものとしても、自身の好きという感情を肯定する」という主題の物語ですので、当初から近親相姦に踏み込むことは既定されていたと分かるわけですが、そこまで読み取れというのは酷でしょう。

だから、自身の倫理感とは違う結末に、生理的な忌避感を覚えてしまう。
それまで共感してきた主人公の選択を自身の中で昇華できずに、澱として残る。
つまり己の持っている今まで信じてきた倫理観について問いかけられることになります。

第一巻で「社会から白眼視されるオタクであることを肯定する」ことに癒やしを感じ、京介や桐乃に共感し続けた人間が、「社会から白眼視される近親相姦を肯定する」ことは否定したいと感じる。
この対比構造が自己矛盾を生むわけです。


倫理の持つ矛盾

創作物は読者に対して疑問符を残すことで思考させることは、本来的には評価される点なのですが、エンターテイメントとして広く流通することで、それに比例して考えることを面倒な行為として嫌う人間も増えてきます。
だからこそ、その矛盾を思考放棄し、作品全体を否定することで問題に蓋をしようとする

何故ならば、近親相姦自体が、何故悪いのかを明確に定義できない問題だからです。
他人を物理的に害する行為ではなく、ただ生理的な嫌悪感から発生する拒否、それは人種差別と何が違うのか?
あくまでも周囲の社会や人間が拒絶するから問題が発生する行動であり、ただひたすらに不条理この上ない断定として「悪い」と社会から規定されているもの。

近親婚否定への例として挙げられる「子供を持った場合の遺伝子的な欠損の可能性」ということは、逆に言えば現代社会のように子供を持つことが夫婦の絶対的義務とされない社会においては適応されません。
過去の日本のように不妊症の女性が石女(うまずめ)などと迫害されることの方が問題でしょう。
経済的な問題、肉体的な問題により、子供を持たない夫婦というものは許容されるだけの豊かさがあります。
子供への遺伝的な問題というものは、現代ではそれだけで拒否されるものではなくなっている。
京介と桐乃が、子供を作らない夫婦になることに、これは否定する要素になりえない。

それでも、なぜ近親相姦は「悪い」のか?

この倫理が内包する致命的な矛盾への問いかけこそが、この作品を特異な立ち位置に置かせ、同時に賛否両論をもたらす根幹になっていると思います。


創作者の決意

こういった乖離は読者からのファンレター等で、作者と編集共に理解していた筈です。
メディアミックスも多くされた作品だけに、批判を恐れて途中で方向転換し近親相姦には触れずに、適当なヒロインとの恋愛劇として終幕を迎えるという、逃げの選択肢も常に存在したわけです。

私もこれだけ流行ってしまったが故に、逃げの選択をするのではないかと思い、完結するまで読むことができませんでした。
だってその方が楽でしょう?
賛否両論よりも、適当なヒロインとのラブコメに方向修正するチャンスはいくらでもありました。

だからこそ、賛否両論を覚悟して最後まで描き切ったという姿勢に感動を覚えます。

12巻での麻奈実との決戦において、
そもそも、最終決戦だなんてご大層な前フリをしたが、麻奈実はラスボスなんかじゃない。この物語のラスボス、おれが立ち向かうべき敵は、一番最初から変わっちゃいないんだから。俺はそいつ、あるいはそいつらに行ってやった。「知るか!」ってな。
この中の京介が立ち向かう「そいつ」、「この物語のラスボス」とは、作中の社会や倫理と同時に、最終巻を読んで二人の恋を否定する読者のことも表しています

この台詞の時点で、基本的に読者が感情移入するべき主人公である京介が、自身と相容れない意見を切り捨てているんです。

こうして批判も否定も納得した上で、それでも物語の主題を描ききるという決意は
「俺はそれを破る!もっと大切なものがあるからなあ!」
 という言葉に仮託されて、語られていると思います。

「読者の共感よりも桐乃がもっと大切なものだ」と読み方は多分にメタフィクション的な視点でありますが、間違っていない解き方だと思います。
というのは、これまでの一人称における京介の主観というものは、外部に呼びかけるように読者の視線を意識したものとして描かれていますから。
この決断によって、物語の中の読者の主観という役割を放棄して、自身の思いの為に行動しているんですね。
だからこそ彼の決断に同意できず、拒否されることとなった読者が反発を覚えるのも、予定された当然の反応なのです。


総論

12冊という分量を持って、作中で2年、桐乃にとっては自分の半生をかけて育まれた思いは、それでも理由なき倫理によって否定できるものなのか?

私は、二人を心から祝福したいと感じましたが、そうではない人もいる。
でも、それは絶対に起こりうる必然なのでしょう。
理屈では分かり合えない根源を抱えるのが人間だからです。

その相容れない二極化する感想と、そこに生まれる各々の思考こそが、この作品を萌え属性を組み合わせた、甘いだけの恋愛劇に収めないものとさせているのです。


俺の妹がこんなに可愛いわけがない、という作品の持つ「否定する人間がいると分かっていても好きを否定しない」というメッセージは、京介たち物語の内側の問題であると同時に、物語の創作論という外側にも共通するテーマだったのではないでしょうか。

1 件のコメント:

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