2014年3月8日土曜日

俺の妹がこんなに可愛いわけがない 賛否両論の理由 -補足- 近親相姦の内包する問題

俺の妹がこんなに可愛いわけがない、最終巻における結末が賛否両論ある理由は、個人的感情による根拠なき作品へのバッシングを除外すると、やはり兄妹での恋愛、つまり近親相姦の是非にかなりの部分が集約されるのではないでしょうか。


何故、近親相姦が倫理という言葉によって否定されるのか。
この点について友人と話していて気がついた、完全に見落としていた問題点がありました。

前回の記事において、出産を前提としない夫婦を許容する社会において、近親相姦を否定できる根拠が無いと書きましたが、「近親者による性的虐待との線引の難しさ」を失念していました。


近親相姦を否定する論拠

欧米ではかなり根深い問題として、父親から娘への性的虐待、もしくはもちろん母親から息子への性的虐待が存在します。

近親相姦の肯定が、ここに「恋愛関係としての性交渉であった」という逃げ道を与える恐れがあるという可能性です。
しかし、この場合はそもそもが未成年者に対する強制的な性交渉の方を問題にするべきでしょう。

では、マインドコントロールのように、性的虐待を当然のものと肯定するような人格を形成するように育てられたらどうでしょう?
子供にとって世界を形造るのは両親と家族であり、そこから歪んだ認識を与えられた場合、それは成人したとしても正しい判断ができているとは言えないでしょう。

彼、もしくは彼女が、一般的な成人としての判断を備えた上で、近親者を恋愛対象と選んだという根拠が、外部の人間に対して明確に証明できないのです。



これに対する回答として「人間の人格形成に密接に関わる異性は、恋愛対象として除外することで安全性を保つ」という考え方ができます。
この理論では、確かに現代においても近親相姦否定の論拠は成り立つと思いました。

自由と安全の天秤において、子供への虐待を見過ごしてしまう可能性よりは、その自由は制限されるべきであると私も考えます。


高坂兄妹の場合について

高坂兄妹においては完全に自我が形成されて後に生まれた関係性ですので、上記の問題には当てはまりません。
ただし危険なものは一括りにして排除するという方法論を用いるならば、彼らの関係性も否定されてしまうでしょう。

なぜなら、彼らの関係性を一切知らない外部に対して「幼少期から兄が妹を、もしくは妹が兄をそう思うように教育・洗脳したのではないか」という可能性を否定する根拠を提示できないからです。

一見すると自由意志否定のようですが、かって巨大宗教団体がマインドコントロールによって、外部から人格を歪めることに成功していた例を出すまでもなく、人間の精神は相応の手間をかければ操作可能であるということは証明されています。
まして、幼少期であるならば、それは素人でも実行可能な程に容易でしょう。

それが本人単独の意志であるか否かが判別できないという状況は、物理的な証明の難しい心の問題だけに明確な答えのないものとなります。

つまり京介と桐乃においても、自分たちが正確な判断を下せる人間として相手を選んでいると、全く見ず知らずの他人に証明することが難しいということは変わりません。


総論

私としては、裁判のように、個別の案件に関してそれぞれの状況を鑑みて取り扱う必要性があると思っています。

そして「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」という物語を全て読むことで、京介と桐乃の関係性を知っている人間は、黒猫や沙織たちが彼らを受け入れたように、そういった社会的な安全弁の存在を認識した上でも、兄妹であるという理由を用いて彼らを拒否することはないと信じたいと思います。

確かに、全く予備知識のない他人の関係としての近親相姦であるならば、上記した理由により警戒することは正しい反応です。

しかし、物語という形をとり、二人の関係性を正確に認識できる特権的立場にある「読者」において、それは適応されません。

そうであるならば、読者というものは近親相姦という表層的な事象だけに囚われずに、二人の自立した人間の判断の結果として、その関係性を認識するべきだと考えます。

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