そして、残念なことに、その定義には私は当て嵌まりません。
では、どんな人間が最もこの作品を楽しむのに適しているのでしょうか?
楽しめる人の物像
まず作品を楽しめるというものの定義なのですが、私見としての楽しむとは感動することです。
それはつまり
「作品を読んだことで自分の価値観を問いなおすような衝撃があること」
ということになります。
名作というものは、得てして人間の生き方そのものにすら影響を与えるものですから。
そして、その定義で考えると、この作品が最も向いている人物像とは
「オタクであり、そのことに負い目を感じつつも、倫理観は非常にまっとうな人物」
となります。
この人物像で誰かを思い出しませんでしょうか?
そう、この作品のヒロインである高坂桐乃です。
桐乃こそが作品とは関係ない読者としてこの作品を読んだ時に最も楽しめる人物なのです。
楽しむための方法論
では、その理由は何故か?答えは一巻と十二巻の結論の相似形にあります。
一巻では
「本当に好きなら他人なんか気にせずにオタクであることを認めよう」
という京介からのメッセージが語られます。
オタクであり、そこに負い目を持つ人間は、この強烈な自己肯定により非常に大きな感銘を受けることができる筈です。
では、十二巻はどうでしょう?
ここで語られるメッセージとは
「本当に好きなら他人なんか気にせずに妹を愛しちゃったことを認めよう」
という京介の決断が語られます。
これは近親相姦であり、まっとうな倫理観を持つ人間は拒否反応を抱くことになります。
ところが、この否定するべき論法は一巻のオタク肯定と同じ構造になっているわけですね。
つまり、自分を肯定してくれた論法により自分の倫理を否定されるという自己矛盾を突きつけられることになるのです。
好きならいいじゃない!として肯定された方法で、なら好きならコレも良いでしょ?という価値観を同時に突きつけられる。
後者を否定することは、自身を認めた前者の論法への否定にも繋がります。
どんなに好きでも社会が認めない近親相姦、と否定することは、
同時に、どんなに好きでも社会が認めないオタク趣味を否定することにもなるのです。
これを肯定したのはどちらも「他人に迷惑をかけない好きという気持ちは認めよう」という方法論だからです。
作中の京介と桐乃の関係も、他人に秘密にするのならば誰にも迷惑かけていませんよね?
親にバレたら不味い?それはオタク趣味でも同じことだと一巻で明らかになりました。だから最後まで二人の秘密として背負うという結論を出したのです。
生涯結婚できない?別に今どき生涯独身の男女なんて腐るほどいます。子供を作らない、作れない夫婦というものも認められています。
つまり、二人がその関係性を公にしないで付き合っていく場合、
そしてオタクを肯定するように「好きなら他人がどう思っても良い」と認める場合、
それを否定する論拠は何もないわけです。
この価値観への揺さぶりこそが、この物語全体の真骨頂だと思います。
高坂桐乃の場合
高坂桐乃は作中で京介によって何度も語られるように、そしてその行動が示す通りに、決して近親相姦が他人に認められる行為であるとは認識していません。それは京介が桐乃へ告白する時に
「(前略)兄妹で恋愛なんてエロゲの話でしょ……現実でやったら、そんなの気持ち悪いだけじゃん……!」という言葉でも語られています。
仮に京介に対して恋愛感情を持たなかった桐乃であるならば、そして近親相姦が自身に関係のない問題であるならば拒否感を感じたはずです。
しかし、自身のコンプレックスとなっているオタク趣味を許容してくれた作品に同じ方法によって肯定された場合はどうでしょう?
自身の価値観が揺らぐのではないでしょうか。
そして双方を矛盾なく納得する為にも、自明のものとして考えなかった、倫理の正しさとは何かについて思考せざるを得なくなる。
こうして、思考し、考えるという行為の必要性を生むことになります。
総論
私のように「近親相姦でも双方合意ならば別に良いじゃん」という結論を、作品を読む前から先に持っている人間には持つことのできない思考の機会。それを倫理について疑問を持たなかった人間は作品から得ることができる。
そして問いから逃げずに、自分でしっかりと考えた上で自分の為の回答を導き出せる人間こそ、本当は一番「俺の妹がこんなに可愛いわけがない」を楽しめる人間なのではないでしょうか?
その結果が近親相姦への肯定と否定どちらであっても、その結論を自身の中で昇華し自覚的な倫理観が形成されるのであれば、やはりこの作品がその人にとっての人生の一部となっている筈です。
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